その6:2003年9月13日
釈から内田先生へ
「その5」にして、はやくも内田流が炸裂! という感じです。最初、この話題がここまで面白く展開するとは、正直、思ってもみませんでした。最近、『原因と結果の法則』という本が売れていますが、そっちよりもこの「持仏堂:その5」を読んでくれ、と言いたい思いです。
《仏教の基盤をひとまとめ》
さて、ここらで一度、仏教に通底している基盤への理解をまとめたいと思います。しばらくおつきあいください。
仏教の「因果」事象は、<四諦(四聖諦:ししょうたい)>に代表されます。苦諦・集諦・滅諦・道諦の<四諦>は、仏教教義の基本構造です。「四つの諦(あき)らかな法」と考えください。
・苦諦は「生きていく上でどうしても直面せざるを得ない苦しみ」です。いわゆる「老いる」、「病む」、「死ぬ」などが挙げられます。
・集諦は「苦しみを生み出す原因」です。つまり「無明(むみょう:本質がわからない、わかろうとしない)」、「執着(しゅうじゃく:固着してしまうこと)」などです。
「すべてが刻々と変化し続けていることを実感できず、こだわり、しがみついている者は、老い、病い、死などの苦しみに身をこがす。悲しみや憂いといったさまざまな苦悩をかかえることとなる」 (『中阿含経』巻六十・意訳)
限りなき自分への執着心こそ、苦しみを生みだす、というわけです。「集諦(じったい)」が原因、「苦諦」が結果、という関係になっています。
・滅諦は「苦が解体された状態」です。仏教の理想です。
・道諦は「滅諦に至る道すじ」です。八正道という実践法が一般的。
「八つの正しい道、すなわち、正しい言葉や正しい心の統一を実践することによって、誰もが、執着を滅ぼすことができる。さとりに達することができるのである。」(パーリ『律蔵』転法輪経・意訳)
執着が最小限になれば、苦しみも最小限です。自己への執着を滅すれば、苦悩も滅する。
ということで、「道諦」が原因、「滅諦」が結果、となっております。
この四つは、「苦諦」(因) −「集諦」(果)、「滅諦」(因) −「道諦」(果)、という連関になっていますが、仏教の因果論は<縁起>という相互依存性に特徴がありますので、因と果が同位相で捉えられるということは前回お話させていただいた通りです。
「苦諦・滅諦」は「惑」-「業」-「苦」という構造になってますが、「滅諦・道諦」は「戒」-「定」-「慧」です。こちらのプロセスへと転換するのです。
とはいえ、これは「聖諦」と言うくらいですから、聖者の歩む道です。一般人の私たちは、まず、パーリ語で三帰依文※を唱えれば、立派なブッディストです! さあ、不殺生などの五戒を習慣としながら、中道(ちゅうどう)と表現されるような、偏りのない、バランス良い生活を続けましょう。That’s All!
ものすごく大雑把に紹介いたしました。もっと詳しくお知りになりたい方は、たいていどんな書籍にも載っておりますので、そちらをご覧ください。
※「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、サンガン・サラナン・ガッチャーミ」と唱えます。和文では「自ら仏に帰依いたします。自ら法に帰依いたします。自ら僧(僧伽:仏教者の集まり)に帰依いたします」です。
イスラムでも、ムスリムになる時にはアラビア語で信仰告白(シャハーダ)を行います。以下のとおりです。「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラーアシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー(アッラーのほかに神なく、ムハンマドはその使徒なり)」。これを二人の証人(ムスリム)の前で行います。以後、礼拝時にも唱えます。
《宗教とは?》
先生にご教示いただいた「経験した複数の出来事の中から、ある因子を選び出して、そこに「物語」を一つ作って、因果関係を構成することになる」という私たちの内面活動は、<宗教>を理解するうえでとても大切なことだと思います。<宗教>とは、「人間の行為や思考に意味を与え、行動様式を形成する」という体系、と理解することが可能です。
そして、豊かな体系であればあるほど、「できあいのストックフレーズを無批判に流用するかたくなさではなく、無限の複合的要素を受け止める深み(取意)」への志向を手放さないのでしょう。
前回、先生がお書きになった一文は、現代を生きるうえにおいて、大きな指針となるに違いありません。例えば、カルト宗教では「単一の原因ですべてを説明する知性」に思考回路を植え込みます。どのような情報を与えられても、「これはサタンがだまそうとしている」とか、「教団をつぶそうとしている陰謀だ」などという方向に導かれてしまう…。つねに教団の都合が良いような判断へとつながる回路、それひとつだけが活発になってしまっています。
とまあ、そんな話じゃなくても、私たちは日常のさまざまな場面において「一つでも多くの前件可能性を列挙できる知性」を求められているに違いありません。それは、決して「今の自分は本来の方向に向かっていない。別に本当の自分があるはずだ」などと、自我肥大を起こすことではないのでしょう。ただ今、自分が立っているこの場が、いかに多様であるか、それを読み解くことなのだろうと推察いたします。
《主体による認識と体験への懐疑》
ご存知のように、フロイトが「たんなる偶然の一致なのに、ときに人はそれにとらわれてしまう」と考えていたものを、ユングは「確かに偶然である。偶然ではあるが、それは意味のある偶然なのだ」として共時性(シンクロニシティ)の概念を提出しました。つまり先生が見事に表現しきっておられるように、原因を事後的に「選んだ」という心理現象に意味づけをしたわけです。人間の意味体系を大切にしようとしたユングらしさがうかがえます。
宗教とは<意味を与える体系である>と書きました(もうひとつ、<行為様式である>とも)。それは仏教も同じです。生きる意味、死ぬ意味を、内面に賦活させる機能をもちます。しかし、仏教には、その生み出された意味への懐疑という側面が常にあります。主体の思惑が生み出す認識、枠組み。それらは、すべて虚構である、とするからです。
自明でないことがらを、自らの判断と選択によって、限定していく。と、同時に、自分の枠組みを疑い、ときにはその枠組みをはずす。このような、弁証法的プロセス(そしてついにはぱっと飛び超えるんですね)にご注目ください。なにせ仏教は、相対性を基底にした宗教なのです。
【「おばさんの死」の知らせを聞いたときに、この人はこれほど重大な出来事については、必ず「シンクロニシティ」があったはずだ、と推論した、というのがことの実際ではないでしょうか?そして、記憶を掘り起こして、「おばさんが死んだ」という時間に起きた「死を連想させる出来事」を選択した】
私が出したいい加減な例を、これほど見事に料理していただき、恐縮です。
この場合に見られる、「これほどの重大な出来事」とは、「私にとって」重大な出来事です。そして「私」は自らの都合にあうものを「選択」します。
仏教では、これを「執着」と捉えます。そういえば、フロイトも、「不気味なもの」の根っこには旺盛な自己愛が潜んでいる、と喝破しています(フロイトは宗教を「幼児性の寄る辺なさ」とか、「強迫神経症」とか、言います。でも、ユダヤ・キリスト教にかなり反発しているのがみえみえで、仏教をきちんと知っていれば意見が違っていただろう、とわたくしはにらんでおります)。
私たちは自己の都合を通してものごとを認識しています。「まったくあの人は、いい人だなぁ」、…、深く自己分析してみると、自分の都合にとって問題ない人を「いい人」と評価しています。「雑草が生えてきて困っちゃうわ」、…、植物を「雑草」と「きれいなお花」に分類しているのは、私の都合です。「雑草」はひっこ抜くけど、「お花」をふんづけるのには抵抗があります。
そのような分別こそ※、執着そのものであり、ひいては苦しみを発生させる構造になっていることに気づかねばなりません。
持仏堂を読んでくださっているみなさまは、「前回ほどの切れ口を見せられていながら、まだ何か言おうとするのか。こねくり回したり、ひっくり返したり、まったく、つまらん! 言説はお好み焼きじゃないぞ」と、きっと憤られることでしょう。
…、はい。ごもっともです…。ムリな「言上げ」など、読者を混乱させるだけなのは承知しております。
しかし、仏教の道は、こんな調子で展開していきます。お好み焼きが、いい色に焼けてきたら、またひっくり返し、何度もいったりきたりして進んでいくのであります。
「それじゃ、いつまでたってもすっきりしないじゃん」と思われますか? 確かにそうかもしれません。中沢新一先生は、「仏教ほどカタルシスがない宗教はない」と語ってます。「あれではない」、「これではない」という繰り返しで、なかなか「これだっ!」ということにならないからです。仏教を思想や言説などで扱おうとすれば、よけいにその感は強まるような気がします。
※ ここでは「分別」を虚妄としています。シャカの瞑想方法は、理性的で分析的なものでした。例えば<十二縁起>という縁起の定型があります。どのような順序で「苦」が生起するのか。またこの「苦」はどのような条件によって成立してきたのか、を説明するモデルです。しかし、仏教の認識方法は、次第に分析的手法よりも、直観的手法へとシフトしていきます。(その5)では、内田先生も何度か「直感」という言葉を使われておられますが、直感や直観はやはり宗教的覚醒と密接に関連しています。
自分勝手な思惑や偏見がない状態=直観、というわけです。仏教では、体験と臨床的研究によって、刺激→感覚→認識→理解→判断→行為といった流れを解明していくにしたがって、主体がつくり出している枠組みを問題視するようになりました。分析的手法は対象をかなりゆがめてしまう、という危惧です。
そこで、そのものをあたかも鏡に映したように、そのままで認識する、という直観が重視されるようになってきました。自己の色メガネや歪みなしに、対象をあるがままに捉える。それに、鏡は対象が前を通り過ぎたら、もう何も映していませんよね。そのように、いつまでも残像にしがみつかないことを理想としました。
《脱構築装置内臓!》
仏教は、このようにある到達点があれば、必ずまたそれを相対化してしまうという別の体系が必ずあります。まさに「聖なる天蓋」は、できたと思えばまた破綻させられてしまいます。
以前、仏教には多くのバリエーションがある、と申しましたが※、それぞれが独自に完成しながら、かつ相補性をもっていると思います。ですから、「これだ!」という体験には、「いや、そうじゃない」という視点が必ずあるわけです。なにしろ「仏は自分自身にほかならない」と説くこともあれば、「仏にすべてをゆだねよ」という神の救済みたいなものもありますし、「もし仏に出会ったなら、その仏を殺せ」という言い方まであるのですから。
これはやはりシャカが、そもそも自らの教えに脱構築機能をセットしたからにほかなりません。デリダは、「その内部にとどまって土台をゆるがせ、新たな可能性を目覚めさせる」という営みをディコンストラクション(脱構築)と呼びました。もし、<仏教>という商品のカタログがあるなら、そこにはぜひ「脱構築機能内蔵」と書き添えていただきたい。
余談ですが、キリスト教系カルト教団によるマインドコントロールのデプログラミングに牧師さんなどが協力されておられます。その際、牧師さんたちは、いかにかの教団の教義がでたらめであるかを『聖書』をもとに検証し解説されます。
この手法、経典があまりにも多様な仏教ではなかなか困難なのです…。おわかりいただけますよね。
※ シャカは誰にでも同じ話をしたわけではないようです。対機説法(相手の状況や能力や傾向に合わせて教えを説く)、次第説法(相手のレベルに合わせて教えを説き、だんだんレベルアップさせていく)、といった手法を使ったといわれています。いわば、めざす山の頂点は同じでも、いろんな登り方やルートがある、といった感じでしょうか。ですから仏教は、異端や正統という区別には鈍感です。いや、寛容か。
《大乗仏教へ》
しかし、そんなに自分というものを否定してしまったら、社会生活できない人間になってしまうのじゃないか。もはや主体がないぞ。だいたい、欲求の否定に固執しているとはいえないか。…そうなんです。
インドという風土と歴史が生んだ<出家>というやや特殊な形態を堅持しようとする保守派に対して、「キミたち、社会からだいぶずれているよ。ちょっといびつだぞ」と批判しだしたのが、大乗仏教運動です。まさに、シャカが自身の思想体系に内臓した<脱構築装置>がばっちり働いたわけです。
追記:「猟奇的な彼女」、内田先生が日記で紹介されてから、なんとか見ようとしているんですが…。絶望的に時間がないっ! それで、というわけではありませんが、「宿命がそれまで繋縛していた別の「宿命」を解除する」という話に近づけませんでした…。