東京ファイティングキッズ・その11
平川克美から内田 樹へ(2003年11月25日)
先日は大阪、京都、神戸と東京を行ったりきたりしていました。
ウチダくんも大活躍で、大変でしたね。
いやー、
ウチダくんのHP日記を読んでいるとまさに八面六臂の忙しさなのに、この書簡の応答のピッチには驚かされます。
ぼくも、文章を書くスピードに関しては人後に落ちないつもりですがウチダくんのスピードにはとてもかないません。
■「脳」を割るということ
小学校で、ウチダくんが「ユーモア新聞」という壁新聞を作っているのを後ろから偵察していたときに、「な、なんだこのスピードは」と思ったものです。
(ぼくがやっていた「おとぼけ新聞」にとっては脅威のコンペティターであったわけです。ほかにも、いくつか壁新聞があったのだけど、すべて忘れています。)
当時はワープなんかありませんでしたから、手書き文字なのですが、ほとんど思考と直結しているかのような手の動きに見入った記憶があります。
ウチダくんのHPによく登場する甲野先生じゃないけど、
きみは「脳」を割るという技術を身につけていると思わざるを得ません。
実はぼくはこの、「脳」を割るという技術こそが、インプロビゼーションの要諦ではないかと思っているのです。
これは思いつきなのですが、ある種の思考からその連関を内部に保持しつつ次の」思考へと飛翔するには、進行中のロジックを保持したままいったん脳のあらゆる部分の総和の力を利用しなければなりません。
「話の続き」を内部に保存しながら「別の話に展開する」ということがなければ、話はすぐに行きづまってしまいます。 そのためには、ひとつの脳が話を続けるというロジックと、話を展開するというひらめきのふたつの異なるはたらきを同時に行うということをする必要があります。
いくつかの相反するはたらきを同時に行うという作業は、実は人間が持っている基本的な生存優位性のひとつなのだろうと思います。
たとえば、ぼくたちが武道で相対しているとき、相手を見ているのですが、同時に背景も視野の中に入れているわけです。 愛犬の「まる」を観察しているとこれがなかなかうまくできていないように見えます。 食べているときはそれに夢中です。おしっこをしているときは案外無防備になっています。
もう少し複雑な場合は、ぼくたちは相手を信用しながら疑うなんていう芸当を普通にやっているように思えます。
そうでない場合は、犬のように主人を「盲信」してしまうわけです。
「盲信」と「疑いながら信用する」ということは「信」の強度の問題のように見えますが、ぼくはまったく異なる心的過程であると思っているのです。「盲信」の場合は自分は相手のコントロール下に置かれており、信じさせられているわけですが、後者の場合は、「疑う」ということが自分の「信用」を監視し補償するための計器のように機能しており、自らの「信」を信じていいかどうかを常に問うというかなり複雑な構造を持っているように思えます。そして「疑う」ということがなければ「信用」とは何かということも理解することができないのです。
まあ、これは昔ボードレールから徹底的に教えられたことですが。
「われば傷口にしてナイフ」というアンビバレントな在りようですね。
いまウチダくんのHPで話題になっている「邪悪さ」というものも、それがなければ「正しさ」というものも存在し得ないというアンビバレントな関係になっているわけですね。
そしてこういった心的過程がひとのふるまいに隠されたダブルミーニングのよって来るところなのだろうと思うのだけれど、どうしてもただいま進行中のロジックに執着してしまうのも、またにんげんなのですね。
まあ、オブセッションというやつです。
そして、このオブセッションからどのようにして「思考」を解き放つかというのはなかなか方法的かつ遂行的な課題であると思います。
それなのに、オブセッションを強化するような「ディベート」やら「戦略」が幅を利かせているように思えてなりません。 ロジックの精密さへの脅迫観念があるんですかね。
「まあ、かたいこといわんと、お茶でも飲もうや」というのが話をひとつ先に進めるための正しい態度なのだろうと思うわけです。
このように、自分の執着を相対化して「見る」ということは非常に重要なことだと思うのだけど、実践するのは案外むづかしいのね。
ウチダくんに教えてもらったように、「自分の欲望は見えない」からです。
■おとなはつらい
大人というのは「酒をのんで、タバコを吸って、キスをするものである」とぼくは少年のころ漠然と思っていました
とウチダくんは書いていますが、ぼくもまったくその様に思っていたわけです。
そしてそれはたぶんいまでも正しい認識だおともいます。
キスはともかく酒もタバコも「役にたたないもの」の典型です。からだにも悪いんですかね。ぼくはいいような気がしてるんですけど。
少年が大人になるときの通過儀礼が「酒」と「女」と「賭け事」つまり、飲む、打つ、買うということになるわけで、これはそのものが与えてくれる欲望充足といったこと以上に、共同体への参加儀礼として位置づけられていたわけですね。
ぼくは、だからおいしくもない、たばこを中学生のときに覚え、飲めない酒を無理して飲んだわけです。(それでもおとなにはなれないんだけどね。)
で、おとなになるとは結局のところどういうことなんだということになるのだけど、まあこれは定義というものは無いわけです。ひとそれぞれにイメージというものがあるだけで、このおとなのイメージっていうのは、それこそ文脈依存性のたかいもので、共同体ごとに異なっているといってよいと思います。
(ここでいう共同体とは具体的な民族や、集団という意味ではなく、幻想共有体というような意味です。たとえば「団塊の世代」とか「チーマー」とか「シロガネーゼ」とか「おたく」とか、「お受験ママ」とか「やくざやサン」とかね。)
それで、全共闘世代で、二流ビジネスマンで、なんちゃって武道家で、へなちょこライダーであるぼくから見るとそれはもう、「こんなぼくを許してくれるひと」がおとなであるわけです。
「まあいい。許す。」といえるためには、おまえが撒き散らす世の害毒はおれが吸収してあげるよってことです。そんなことできっこないのに、そう公言してはばからない態度を「おとなだねぇ」というわけです。おとなはつらいのです。
だって、できっこないマニフェストをいつも高く掲げていて、つらさを面に出すことを禁じられているのですから。
太宰治風にいうなら、「食わぬししくったふりしてししくったむくいをうける」覚悟が必要なわけです。
何を言いたいのかというと、こどもとおとなはお互いにそれがなければ存立できないような相対的な対概念であり、おとなとはつねにこどもに対して「許す」という立場を取り続けるというところに立ち、相対的にこどもはつねにおとなに対して「許しを請う」という立場を取り続ける場所に立ってしまうわけです。
だから、こどもが成長しておとなになるのではなく、相対する人間や組織に対する関係の中で、どのような立ち位置にいたのかということで、事後的にわかることなのかもしれません。
ひとは相手との関係のなかでおとなになったり、こともになったりしちゃうわけね。
「まあいい。おれが悪かった」という態度は、じつは有責性がほんとうはどこにあるのかという根拠とは無関係なおとなとしての「役割演技」に近いものだと思っています。
ウチダくんのよく言う「フルメンバーとしての有責性」って、ぼくの大好きなフレーズですが、「まあいい。おれが悪かった。許す。」という「謝罪」と「許し」の両方をかれに引き受けさせる根拠といえば、それは「自分がこの共同体のフルメンバーであるのだから、だれに責任があるかなんて問題ではない。じぶんが共同体を代表するという責任があるだけだ」という自らの立ち位置への認識なのだろうと思います。
対して、「おまえが悪い」といいつのるひとは、じぶんがアウトサイダーで、無垢で正しいと思っているわけですが、そして自分の立ち位置に対してはほとんど関心が無く、その正しさをいつも「おとな」から補償されていないと我慢できないという意味でこどもであるわけです。
つまり、おとなは「謝罪しながら許しをあたえ」、こどもは「断罪しながら許しを乞う」という関係にあるというわけです。
ところで、正月は東京ですよね。
瀬田温泉(温泉が出たんですよ)ででも一献傾けましょうか。先日は大阪、京都、神戸と東京を行ったりきたりしていました。
ウチダくんも大活躍で、大変でしたね。