その12
2003年12月6日
内田 樹から平川克美君へ
お元気ですか。
師走って、ほんとにせわしないですね。
この原稿も学会の会場の隅で、開始時間のまえにせこせこシグマリオンで打っているんです。
ほんとに二三日温泉にでも浸かってのんびりしたいですね。
瀬田で温泉が出たんですか?
ふーむ、どこでも温泉が出ますね。
平川君、その理由ご存じですか?
前に石油会社のやつ(あのイトーくんです)に聞いたんですけれど、最近やたらあちこちで温泉が出るようになったのは、掘削技術が飛躍的に進歩したせいなんですって。
むかしならとても掘れなかったような深度まで、最新のボーリング機械はぐいぐい掘り下げてしまう。なにしろ日本は火山列島ですからね、どこでも深く掘りさえすればいつかは温泉にぶち当たるわけです。
どうして掘削技術が飛躍的に進歩したのかというと、石油危機のせいなんです。
70年代にローマクラブの『成長の限界』というのが一世を風靡したのを覚えていますか?
石油の埋蔵量はもう限界に近づいており、21世紀のはじめには世界の石油は枯渇してしまい、石油に依存している産業はエネルギーを失って倒壊するであろう・・・というなかなかスリリングな未来予測だったですよね。
ところが石油会社も必死で掘削技術を上げて対応したら、なんとローマクラブの報告書起案時点には掘削不能であった深度から石油がざくざく出てきたのです。
これはローマクラブの未来予測が「間違っていた」ということではないと思います。
未来予測なんて、はずれて当然なんです。
だって、未来予測をした時点では知られなかった、まったく予想外のファクターが必ず出現しているわけで、その中には未来予測をおおはばに書き換えてしまようなものが含まれていて当然なんです。
でも、今、誰も『成長の限界』の話なんか、しませんよね。
これってまずいと思いません?
未来予測を言いっぱなし、聞きっぱなしにして、「どういうふうに予測を誤ったのか」についてていねいな吟味をしないで放っておけば、今行われている未来予測の確度を上げるという、より緊急な課題にまるでフィードバックされないじゃないですか。
「過去の歴史」は、言ってしまえば「過誤と失敗の歴史」です。人間の「愚かさの事例集」と言ってもいい。
人間はどういう状況で、どういう条件で、どういうデータを読み落とすと、判断ミスを犯すか、ということについてのデータの蓄積と分析は非常に有効だし、重要だと思うのですけれど、そういう作業には、今のメディアも学者もあまり真剣に取り組んでいないんじゃないかとぼくは思います。
失敗に意味があるとすれば、それは失敗から学ぶことができるということに尽きるわけで、だからこそ失敗することは少しも悪いことじゃないとぼくたちだって偉そうに言えるわけです。
でも官僚なんかは、過去の政策のミスを必ずごにょごにょ言い立てて糊塗しようとするでしょ。
何ですぱっと「あ、間違えました!すみません!」と言えないんでしょうね。
「間違えました、すみません」という言葉をどれくらい適切なタイミングで切り出せるか、ということに人間の知性はかかっているとぼくは思います。
たしか平川君も前にそう言っていましたね。
すぐれた経営者というのは、事業がうまく行っているときに、全従業員の中でいちばん最初にその事業の「失敗」に気づいて「撤収!」と宣言できる人間だって。
逆に言えば、バカな経営者というのは、事業が傾き出して、他の従業員が「もう、やめましょうよ」と忠告しても、最後まで自分で作ったビジネスモデルにしがみついている人間だということです。
当然のことなんですけれど、分かってくれる人はけっこう少ないですね。
■ 猜疑と信認
「相手を信用しながら疑う」という話、ちょうど同じことを昨日学会発表で聞きました。
エリヤ・デルメディコというクレタ出身のユダヤ哲学者が、どんなふうにスピノザに影響を与えたのかという、まことにコアにしてディープな論題のものだったのですけれど、論の中心は、ぼくたちの時代においては「当然」とされている、すべての人間は知解の能力・推論の能力において同等である(はずだ)という平等思想が、中世では「常識」じゃなかったということでした。
デルメディコは、「知的訓練を受けた賢者」と「受けていない大衆」を峻別し、形而上学的な宗教批判は「知的訓練を受けていない大衆には許されない」という「ダブル・スタンダード」を語った人です。
どうしてかというと、宗教(この文脈ではユダヤ教とイスラム教のことですので、「宗教」はイコール「律法」のことです)批判というのは、別に宗教は「ダメだ」ということではなくて(「批判」という言葉の意味を間違えている人が多いですけれど)、「どうしてこれこれの律法規定があり、それは人間に何をさせるためのものであるのか」についての解釈を加えることです。
つまり、「知的訓練を受けた賢者」は「どうして、こんな律法規定があるのか?」と問うことが許されるけれど、そういうことを考える「仕方」を学習していない人たちは、黙って「戒律に従う」方がよろしい、というのです。
というのは、うかつな宗教批判をすると、大衆はもう必ずといっていいほど「こんな律法には合理的根拠はない」と言い出して「無神論」に走ってしまうからなんです。
まことにデリケートな問題ですけれど、15世紀の哲学者がいちばん頭を痛めていた問題がこの「真理のマルチ・スタンダード問題」であったということを聞くと、人間てそれからあともなかなか進歩してないのね、と思います。
平川君はこう書いていましたね。
「疑う」ということが自分の「信用」を監視し補償するための計器のように機能しており、自らの「信」を信じていいかどうかを常に問うというかなり複雑な構造を持っているように思えます。そして「疑う」ということがなければ「信用」とは何かということも理解することができないのです。
これは完全にデルメディコの言うところの「賢者の作法」です。
そして、思考枠組みを固定化し、「オブセッションを強化するような『ディベート』やら『戦略』」を語る人間のことを、デルメディコはきっぱりと「似非哲学者」と呼んでいたのでした。
「似非哲学者」って、なかなかクリスプな悪口で(最近、こんな言葉誰も使わないけど)けっこういいですね。
賢者とは「世界の無根拠性を道破した上で、それでもなお世界に意味があるとすれば、それは私たちが創造しなければならない」と考える人のことです。
大衆とは「世界には意味があり、それは自分ではない『誰か』が担保している」と考える人のことです。
似非哲学者とは「世界には根拠がなく、人間の行動を律するどのような超越的規範も存在しない」と考える人のことです。
ふむふむなるほど。
平川君が書いているように、有責性というのは「どこか」に判定基準があるものではなく、「あ、ごめん、オレが悪かったわ」という有責性の「先取者」がいるときにのみ存立するものだと思います。
言葉を換えて言えば、「あ、ごめん、オレが悪かったわ」という人間の出現とともに「倫理」というものが基礎づけられるのだと思います(これはわが老師の教えですね)。
「悪いのは誰だ?」というかたちで問いを立てるものは(当今の知識人というのは、まあだいたいそうですけど)、決して「有責性の先取」というみぶりの形而上学的意味を理解することができません。
これがほんとに分からないらしいんですよ。いっくら説明しても、
「え?『悪いのは誰だ?』って審問しちゃいけないって?ふざけんじゃないよ。誰だ、そんな妄説を説いて回っているのは!責任者出てこい!誰だ、悪いのは!」
あ、すまんすまん、ごめんね。おじさんが悪かったよ。
というふうに「子ども」というのは「子どものディスクール」でしか語れないものなんですから。
「すまん、オレが悪かった」という言葉が敗北の宣言ではなく、知的・倫理的卓越性の「しるし」である、ということが常識に登録されるまで、まだまだずいぶん時間がかかりそうですね。
でも、それが実現すると世の中はずいぶん暮らしやすくなると思うんですけどね。
今日のホームページ日記にも書いたことですけれど、「真理の水準」と「政治の水準」は違います。
理路の整合性、データの正確性といったことが死活的に重要な水準と、「言葉が届いて、実効的に機能する」ことが死活的に重要な水準は別のものです。
平川君がいう「脳を割る」という作法は、あるいは頭の半分を「真理の水準」で使い、残り半分を「政治の水準」で使うという思考法のことではないかと思いました。
真理性だけを信じている人間は現実性の希薄な「科学主義」に閉じこもってしまうし、政治性だけを信じている人間は理路をねじまげデータを改竄することをためらいません。
この二つの水準のあいだには「架橋」が必要です。
でも、「架橋するための一般理論」というものは存在しません。
真理の水準と政治の水準のあいだを架橋するのはおそらく「身体」です。
身体はたぶん「真理と政治のあいだ」の、あるいは「理念と現実」のあいだで「平仄が合っている」ことを「気持ちよい」と感じることのできる器官なのだと思います。
「話のつじつまは合っているんだけど、なんだか腑に落ちない」とか「世間が許してもおてんとさまは許さねえぞ」とかいう判断の審級は、あきらかに「脳が割れている」状態でしか存立しないものですよね。
これについてはもう少し考えてみますね。
では
年末お忙しいことでしょうが、身体を壊さないようにしてください。