その14
2003年12月28日
内田 樹から平川克美くんへ
■贈与と人間性
神田明神の銅像のある明治の「プチ偉人」(って形容矛盾だな)の話って、いいですね。
おっしゃるとおり、こういう「プチ偉人」を同時多発的に輩出したというのが近代日本の底力を作ったのだろうと思います。
このような篤志家たちの行動を動機づけたのは、自分の成功は自分一身の手柄ではなく、それは先行する人々から受けた「恩」によるものであり、それゆえ、その「恩」を自分もまた次の世代に「パス」しなければならないという、強い「反対給付義務感」ではなかったと思います。
反対給付(contre-prestation)というのは人類学の概念ですけれど、「何かを贈与されたら、それを別の誰かに贈与せずには気持ちが片づかない」という感覚のことです。
レヴィ=ストロースはこの反対給付の感覚が三つの水準でのコミュニケーションを基礎づけている(財貨・サービスの交換=経済、言葉の交換=言語、女の交換=親族)という驚嘆すべき仮説を立てたわけですけれども、このレヴィ=ストロースの説には非常に説得力があると思います。
自分が何かを達成したときに、それを「獲得」であると感じず、「贈与」であると感じることができる能力、それをレヴィ=ストロースは「人間性」と名付けたわけです。
その意味ではいまのぼくたちの社会に蔓延している「サクセス志向のイデオロギー」というのは、人間がだんだん「人間でなくなる」プロセスと言えるのかも知れません。
「一宿一飯の恩義」のために命まで差し出さないといけない、というのはお馴染み「やくざ映画」の悲劇的葛藤の定番ですけれど、子母澤寛の股旅小説や60年代の『日本侠客伝』や『昭和残侠伝』を見ると、「一宿一飯の恩義のためには見知らぬ人に命を贈らなければいけない」という反対給付の義務感から逃れられない「古典派侠客」と、「一宿一飯をめぐんでやったんだから、その対価をオレによこせ」と要求する「近代ヤクザ」のあいだの根本的な価値観の対立がドラマの軸になっています。
反対給付の義務感から逃れられない侠客はその分だけ何か(おのれの命や同志や愛する人びと)を失うわけですけれども、ドラマは「そのようにして反対給付の義務を果たしたものこそ、人類学的基準からはオッケーなのである」というメッセージをきっぱり送っています。
あるいはここで描かれたような、近代的な「獲得」主義者と、太古的な「贈与」主義者の対立という図式は人類の黎明期からずっと配役を換えながら継続してきたのかも知れませんね。
おそらくその葛藤の中で私たちの祖先は「人間性とは何か?」という問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてきたのでしょう。
■共生とエロス
「共生する能力」というのは人間性の根幹にかかわるものだと思います。
それは「共生」というとき、その相手には、自分の言葉が通じない人間、その感受性に共感できない人間、その価値観を承認できない人間も含まれているからです。
「不快な隣人」とさえ共生しなければならない、それががこの問題を複雑にしています。
これまでも繰り返し語っていることですけれど、自分の言葉が通じ、自分の感受性が共感され、自分の価値観を共有してくれる相手とであれば、誰だって共生できます。
だから問題はそんなところにはないのです。
メディアでは「言葉が通じる相手、感受性が共感できる相手、価値観が同じ相手」だけで構成されたメンバーズオンリーの閉じられた小さな共同体を作ることがいかに「気持ちのよいこと」を繰り返しアナウンスしています。
そりゃ、たしかにそういう小集団の中でぬくぬくしているのはさぞや「気持ちがいい」ことでしょう。
でも、それだけでは「社会」は成立しません。
今の国際政治の危うさは、「価値観が同じ相手」とだけパートナーシップを組み、ことばが通じない相手を「境界線の向こう」に排除しようとする恐るべき「単純主義」(simplisme)が支配的なイデオロギーになっていることです。
あるイデオロギーが「支配的なイデオロギー」と呼ばれるのは、それを批判する言説でさえもが、そのイデオロギー固有の言葉づかいをしてしまうからです。
変な比喩かもしれませんが、これはエロティックな関係性が国際政治の水準にまで蔓延してきた徴候じゃないかとぼくは思います。
エロティックな関係というのは、ある意味でそういうものですよね。
二人だけで暗い部屋に閉じこもって、二匹の子犬のようにくるくる転げ回っているのは、たしかに気分のよい経験です。
でも、そのような関係をそれ以上外部に拡大することはできません。
してもいいけれど、それはもう社会関係ではなくなります。
社会関係を構築するということは、端的に言えば「不快な隣人」を排除することを自制する節度のことではないでしょうか。
「不快な隣人」はたしかに不快です。
それを好きになれと言ったって無理です。
でも共生しなければならない。
だとすれば、「好きな人とだけ共生する」という身勝手な原理は退けられます。
「好き嫌い」の水準と「市民としての義務」の水準は使い分けねばなりません。
いまの社会でいちばん欠けていることの一つは「不快な隣人と共生するためのマナー」でしょう。
最近の若い人たちは恋愛期間がすごく短いのが特徴だそうです。半年続くと「なげー!」と驚嘆されるそうです。
でも、これを「最近の若い連中は性的に節操がない」というふうにしかり飛ばしてこと足れりとすることはできないのではないでしょうか。
というのも、どうやら彼らは「エロティックな関係」以外の関係を他者と取り結ぶことができないらしいのです。
他者とはエロティックな関係しか取り結べない、いっしょにごろごろして気持ちのいい相手としかかかわりを持てないということになると、それが社会関係を作り上げる上でどれほど不便か想像できますよね。
「やあ、こんにちは」のつぎはもうセックスしないといけないんだから。
男性同士の場合はエロティックな関係についての文化的な禁圧が強いせいで、とりあえず「ホモソーシャル関係」(同じ服装、同じ髪型、同じ言葉づかいの「メンバー」たちによる「一身化」)しか認知されていないので、そういえば、みんなそうなってますね。
結果的に(たいへん皮肉なことですが)、ホストとか風俗嬢とかいう「セックスを商品として売り物にしている人々」との関係こそがいちばん「エロティックではない関係」なので、他者との非エロス的かかわりを求める人々が、ぞろぞろとホストクラブや風俗店に通うという珍事が起きているわけです。
なんだか変てこな時代になったものです。
非エロス的な人間関係がどうあるべきか、という問いが社会のどのような場面においても、「ごぼっ」と抜け落ちているのが日本の現状ではないでしょうか。
他人も自然も、そこに自分が存在する以前から「在る」という認識が「共存」するという発想につながってくるのだと思います。
そして、自分が存在する以前から存在しているものに対しては、どんなに理解不能な、わずらわしい存在であったとしても、かれらの先住権を認めるというのが、インテリジェンスをもった人間のマナーというものであると思うわけです。
そして、もし自らの存在自体がかれらの先住権を犯さねばならないというところでは、「情理を尽くす」以外の方法はないといってもよいのだと思います。
平川くんのこのフレーズの中にはとても重大な知見が含まれていると思います。
それは「他者とは私の世界の先住者(autochtone)である」という考え方です。
ちょうど同じような話題をいま「インターネット持仏堂」でも浄土真宗の学僧である釈徹宗先生と話し合っているところなのです。
「いま、ここにいる、私」をすべての始点とする発想に対して、「いま、ここにいる、私」に先んじて、「私にとって決して『現在』として経験されることのなかった『過去』のある時点に」「私に先んじて」いた「先住者」が「ここ」を私に「贈与」してくれたために、私はいまここにいられるというふうに考えることを、「宗教性」と呼ぶ、というふうにぼくは考えています。
平川くんは「インテリジェンスをもった人間のマナー」と書いていますが、ほんとうはそれこそが人間の「宗教性」の内実だと思います。
大切なのは「私は他者に絶対的に遅れている」という覚知です。
レヴィナス老師はこれを「始源の遅れ」(initial apres-coup)と術語化しました。
initial apres-coup 「最初の事後に」というのは「そもそものはじめのときに、『あ、これは事の終わった後なのだ』と気づくこと」というふうに解釈するのだと思います。
私たちにとっての「そもそもの始まり」が、すでにして「事後」であるという感覚、ラカン風にいうと「私がそのルールを知らないゲームに自分がプレイヤーとしてすでに参加している」感覚、それが「人間性」の核にあるもののではないのでしょうか。
平川くんは、その「遅れてきた私」が「先住者」に対して取るべき構えを「情理を尽くす」というまことにツボをおさえたことばで表してくれました。
「情理」というのは「人情」と「義理」の二つの原理のことです。
さきほどの事例で言えば「エロス性」と「社会性」と言い換えることもできますし、「愉快なパートナーと共生すること」と「不快な隣人と共生すること」と言い換えることもできそうです。
「情理を尽くして語る」というのは、おそらくは平川くんの言う「黄色く濁った目」をして「先住者」をみつめ、通じるかどうか頼りのないことばを綴って、共感のできない人々、価値観の容認できない人々に向かってさえ「私はあなたには共感できないし、あなたの価値観も承認しがたいけれど、それでも、あなたの先住権を尊重する」と告げることでしょう。
困ったことに、ぼくたちにとっての「先住者」であり「不快な隣人」である人々の中には当然ながら、グローバリズムの旗手たちやメディアで無責任なアオリをしている人々も含まれているわけです。
彼らを罵倒することはたやすいことですけれど、それでは対立者である彼らを含んだかたちで人間社会を再構築することはできません。
罵倒したり排除したりすることなく、対立を保存しつつなお敬意をもって遇するためには、どのようなマナーで接すればよいのか・・・考えるとまことに難題です。
大学の話はまた明日にでも続けて書かせて頂きます。
とりあえず、今日はここまで。
では。