その5
平川克美から内田 樹へ(2003年10月29日)
最近、会社で犬を飼いました。「まる」という柴とビーグルの雑種で、慣れるま でということで夜は自宅に連れて帰り、 毎朝5時半に起きて(こんなに早起きしたことなかったね)多摩川を一緒に走っ ています。若いまる(3歳)の走りを見ていると動物本来のしなやかな躍動に ちょっ とした感動を覚えます。多摩川の原っぱに下りて、昇り始めの太陽の弱い光の 中、 リードを外すと、それが合図といった具合に一目散に走り出す。草が川風に揺ら ぎ、真っ白な鷺が降り立ち、空気がおいしいもんだと気付く。動物と自然のある べき姿がそこにあります。まさに早起きは三文の得です。
ウチダくんの言う「太古的なもの」の甦りは様々な局面でぼくたちに何かを語り かけているようです。まるの嗅覚の鋭さにはいつも驚かされています。
さて、文体も話題もフリーハンドで、始めたメール書簡ですが、やはり興味の行 き着く先は同じようなところにあるようで、 論件はほとんど出揃ってきたのかなと思います。
言葉ー身体ー貨幣。これは「文学」「武道」「経済」と言い換えても、「知」 「身体」「交換」と言い換えても同じですが、 これらについてぼくたちがどのように考えて実践してきたか、あるいはこれらの ことを掘り下げてみると未来はどのように見えるのかということなのだろうと思 います。(なんて、話のネタは何だって構わないんだけど、一応ね。)
■個性的と普遍的
先日、キリンビバレッジの前の社長である阿部洋己さんからメールをいただきました。
「Fire」とか「生茶」の開発から販売までを先導されたヒットメーカーにして熱 血名経営者です。その中で、 彼がウチダくんの「ため倫」について触れ 「ウチダさんの視点は独特ですね。だけどまともですね。」と書いていました。
言い得て妙で、阿部さんの経営者的な簡潔にして核心をつく言葉使いに感服しました。
ウチダ本が面白いのは 「独特だけどまとも」であると言う。
いい表現だなぁ。この「独特」と「まとも」の間には吟味すべき深遠があるように見えます。
まともなだけではつまらんし、独特なだけでは相手に届かない。
独特というのは養老先生風にいうなら「変わらない個」「自己同一性」の視点です。
人間は誰でも生まれながらに独特な存在です。ひとつとして同じものは無いわけです。
「まとも」というのは、その対立概念である「共同性」ということです。
なぜなら、まともであるためには必ず、多くの「他者」の理解と承認が必要となるからです。
たいせつなのは、このどちらかだけでは思想にはならないということです。多くの学術的な論文がさっぱりこちらの頭に入ってこないのは、ロジカルな語り口の 中に、当の相手の「腑に落とす」という身体的な記号が無いことによるのだと思 います。
また逆に体験的な断言だけではどうしても普遍に届かない詐術的な限界を露呈してしまうのです。
まあ、頑固床屋政談みたいなものです。
個別的でもあり、共同体的でもあるような語り口。
対立する概念に分解還元してゆくような方法ではなく、両者が共同するような思考。
たぶんそのような語り口だけが、本当の指南力を持つ「思想」を伝えるのだと思います。
その意味では、ウチダ身体論は、内田くんの言葉を使えば暴走する「脳」に「待った」をかけて 「太古的」な自然に引き戻すための「常識」を語っているように見えます。
独特だけど、今は忘れ去られた、あるいは立原道造風に言うなら「忘れ去ったことさえ忘れた」常識が、ぼくたちの身体の古層には書き込まれていて、それを解読する試みであるといえるのかもしれません。(かっこいいねぇ。これ)
「体感の信号を送る」ということについてはぼくにも心当たりがあります。武術によく言う「かみ合う」というのもこれでしょうし、「居つき」の原因もここにあるように思えます。ぼ く自身、先輩の「下段払い」の気を受けて打ちのめされた経験には事欠きません。
さて、その養老孟司の「逆さメガネ」に、この10年間ほどで、知のあり方が変わったという重要な指摘がありました。世の中の情報化、(かれは都市化ということばを使いますが)の進行のなかで、いつのまにか若い人たちが「変わらない自己」という考え方を持つにいたったということです。自分探しをするのは、探している自分は変わらないということが前提にあるからだとも言っています。そして、何故このような考え方が支配的になったかという原因を、人間自体が情報になったからだとさりげなく断言しています。情報は時間がたっても変わらずデータベースの中にあって、ただ付け加えたり、削除したりする対象って訳です。
確かに常識が変わってきているのだと思います。そして、これが厄介なのは「常識」は変わらないと思われていてそれが変わったときには、以前の常識は常識であったということを忘れ去っているということなのです。
ぼくが1994年をひとつの起点として語ってきたのもこのことです。
言葉づかいが代わったということは、意識が変わったということです。そして、変わってしまった意識は、養老孟司が言うように、自分が変わっていないと思い込むことをその本性としていますから、変化に無自覚なわけです。
ウチダくんのいう「自分の欲望は見えない」っていうのと同じことです。
問題はどうして「言葉づかい」が変わってしまったのかということです。
その要因のひとつがアメリカであると思っています。
この場合の「アメリカ」とは勿論リアルな米国経済や文化、「アホでマヌケ」な人々のことではなく、それら総体の起源であるところの要素還元型の「思考の型」のことです。
■大学とビジネス
このあいだ、立教大学のシンポジウムに参加しました。(今年、立教大学の経営大学院のアドバイザーになった関係からこういった講座やシンポに顔を出しています)
演題は「立教大学MBA教育への期待と課題」といった地味なものですが、これは国が進めている大学の独立行政法人化、MBAや新設のMOT(Management of Technology)に関しての広報的な意味合いが強いものです。ぼくが呼ばれるのはたぶんこういった動きに対して批判的な意見を述べよということだと思いますので、素直に批判させていただきました。
パネルは、市原健介さん(経済産業省の大学連携企画調査官)と亀川雅人さん(立教大学経済学部教授)と私。
司会は廣江彰さん(立教大学知的資源活用センター長)で行われ、事前の西出徹雄さん(中国経済産業局長)のキーノートスピーチを受けて、米国流のビジネスクリエーターの養成が急務であること、日本の起業家教育、支援が不十分であることなどをテーマにして話が進行しました。その中でのぼくの意見はとてもシンプルで次の3つに集約されます。
1.ビジネスの課題は、「行為遂行的なもの」であること。つまり実践的であるかどうかが重要で、正邪理非、道理や真偽とは別の水準のものである。
2.ビジネスの本質は、「収益の確保」と「理念の実現」という、たぶん相反するであろう課題をどうやって解決するかということの中にあるということ。
3.大学での教育は、行為遂行的な収益の確保を担保するのではなく、ビジネスの理念についての研究であって欲しいということ。それには哲学や文学といった実学でない学知こそが重要であること。
(実態はすべて反対になっているように見えます。)
言い換えると
1.ビジネスの課題は個別現場的なもので、大学での知見はそれがどれほど実学的に見えても直接的には役にたたない。(大学も官僚もビジネスの素人の集団なんだから)
2.短期的な収益の確保に終始した90年代の経営は大きな岐路に立っており、経営者の理念そのものが問われ始めている。(当の米国では既に大きな反省のうえに、次のプログラムがはじまっている。)
3.大学は、大学がこれまで蓄積してきた最も得意なことの中に差別化要因(価値)があるべきで、経営的にも得手に帆を上げるほうが結果として競争力を確保できる。
ひとことで言うならどうして「大学」は最も苦手なことをやろうとするんかいな。ということになります。
しかも、アントレプレナー精神から最も遠い「官僚」の指導の下に!
これらを綜合すると、結局ケーススタディを基にした米国流のMBAやMOTはあまり意味がないですよということになります。
ぼくは、多くのMBAと一緒に仕事をしましたが、(おいしい場所に自らをポジショニングしてキャリアパスを手に入れる手法、まあ姑息ということです。−以外には)ほとんど彼らが何を学んだのか理解できませんでした。彼らから学ぶことも ほとんどありませんでした。
ウチダくんもご存知のように、ぼくは人の意見や異見に対して特に不寛容な人間ではありません。
むしろ、非常に柔軟に良い意見には従いますし、前言撤回に躊躇しません。
それでもほとんど学ぶべきものがないのです。
スタートアップ段階の会社経営においては、MBAで学ぶ知見は邪魔にこそなれ、ほとんど寄与することが無いように思われました。
3月の日本経済新聞の「創業最新事情シリコンバレー」という記事に、ちょっと衝撃的な記事がでました。
ハイテク企業のコストカットコンサルティングをしていたマーティン・ピチソンがスタートアップ期の会社にはCEOやCTOはいらないと言っており、ガイ・カワサキは、MBAは不要であると言っている(だいたいですが)のです。またベンチャーキャピタルから資金を入れるなとも言っています。要するに1995年から2000年にかけてのシリコンバレーモデルとは正反対の見解を当代の売れっ子コンサルタントが言明しているのです。このように、米国はすでにバブルの修正に向かっていますが、日本はITバブル期の米国的な戦略に追従しようとしているように見えます。
ビジネスの本質は「差異を作り出すことで価値を生み出す」ことです。物々交換の時代からIT、金融の高度資本主義の時代にいたるまでこの原理だけは不変に見えます。地理的な差異、時間的な差異、質的な差異、量的な差異。これらの差異を顧客に届ける方法的差異。サービスの質の差異。顧客との関係の差異。といった具合です。日本の教育機関や大学が作り出せる競争力のある差異とは何なのでしょうか。それを考えていただきたいと申し上げたわけです。(どう考えたって世界の趨勢に従って実学優先なんていう結論にはならないでしょうが)
■ゴールとプロセス
さて、ぼくの現在のポジションから見ていると随分と時代も変わったものだということになります。
かつてぼくたちが起業したときは起業のイメージは、(そもそも起業なんてかっこいい響きはなかったよね)一旗上げるかあるいは社会に順応できない奴らが自給してゆくために仕方なくといったドロップアウト組みの世界だったように思います。つまり、スペードを集めて一発逆転を狙うしかないって感じ。事実ぼくたちの会社に集まってきたのは社会のスペード札のように意気消沈した若者や、学校に順応できずにドロップアウトした若者が多かったように思います。
要するに、まともなやつは、公務員か銀行員か大企業に行って、起業するなんてやつは社会の 落ちこぼれか反逆児のように思われていたわけです。
それが、今は国を挙げて起業を推奨し、アントレプレナーやベンチャー企業は時代のヒーローのように称揚されています。
そんなもんじゃねぇんだけど。というのがぼくの感想です。むかしもいまも、起業家は自立の物語の語り手で、修羅場とリスクが退屈しのぎになるようなメンタリティの持主に違いはありません。それが今はリスクヘッジです。リスクを分散させるのはいいのですが、自らのポジションも安全なところに置きながら、得だけを取ろうというのでしょうか。
ウチダくんの過剰に貨幣が運動すると、ものを作る動機づけが弱くなるというのは非常に重要な指摘だと思います。ぼくはエスプレッソという雑誌で、これをゴール志向と呼びました。
多くのビジネスプラン指南書にはゴールを明確にせよというのがあります。ぼくはこの考え方そのものに疑問を持っています。ゴールがまずあって、そこから戦略や創造のプロセスが決定されるという考え方は、人間の本源的なネーチャーと齟齬をきたすと思っています。つまり大切なのはゴールではなく、プロセスだと。
貨幣はゴールのひとつの象徴です。ゴールを起点に物事を判断してゆくと、無駄を省く、コストカットのために人員を整理する、業務を効率化、合理化するといったように日常の労働プロセスがゴールのための道具、機会、しもべとなる他はなくなります。
究極のところプロセスは無駄なもの、無いほうがいいということなります。
そこで、お金でお金を買うようなショートカットビジネス(これが金融の本質でしょ。)に向かってゆくわけです。
ショートカットするなよ。途中が面白いんだぜという広報マンが今のぼくです。だから、プロセスには勝ちも負けもないのです。自分で自分のしていることに納得、了解できているのかが大事な訳で、それなら貧しくたっていいよということになります。でも、この戦略は結果として労働の質の差異化を作り出すことになり、儲かることになります。
かつてのぼくたちがそうであったように、労働とは本来楽しいものです。ものを作る、人とコミュニケートする、お客さんに喜んでもらうといったプロセスの持つ価値を再評価していく必要があるのだと思っています。
かって、ぼくたちがあまりにも楽しそうに仕事をしていたので、お客さんが何であんたたちはそんなに楽しそうなの。ぼくらも混ぜてよといって発注してくるというトランザクションサイクルがありましたよね。これだぜ。誰でも混ぜてあげるからね。
「金のないやつぁ俺んとこへ来い。俺も無いけど心配すんな」って起業家の最も基本のマインドセットだと思います。
次回はもう少し、ロジカルに消費論をと思いますが、どうなるやらです。
今日はこれから、紀尾井ホールで デジタルハリウッドの杉山校長や、国立民俗歴史博物館名誉教授の小島美子さんらとのシンポジウムに行ってきます。たぶん、都市の未来がテーマです。(次回はこちらの都市論についてもすこし書いてみようかと思います。)
では、行ってきます。