その6
内田 樹から平川克美から(2003年11月3日)
「会社で犬を飼う」というのがいかにも平川らしくて、いいですね。
むかし、ぼくたちがアーバン・トランスレーションという会社をやっていたころ、専務だったヨコヤマくんがある日気色ばんで「平川にはもう我慢できん」とぼくに愚痴ったことがありました。
「どうして?」と訊いたら、
「平川は、デスクの引き出しにぬいだ靴下を入れて置くんだぜ!」
ということでした。
なるほど。
「会社はパブリックスペース」であり、そこには「私的なもの(ぬいだ靴下とか)を置いてはならない」ことを自明とするヨコヤマ専務には、パブリックスペースでほっこりくつろぐ平川くんのマナーはなかなか理解が及ばなかったのでありましょう。
ましてや会社で犬を飼うなんていったら、靴下どころの騒ぎじゃなかったでしょうね。その点、いまのリナックス・カフェのスタッフたちは、許容度高くて、よかったですね。
■独創性と学術性
『ため倫』についての、「独特で、まとも」という評言、とてもうれしいです。
これは矛盾しているようですが、ほんとうは少しも矛盾していないとぼくは思っています。
ぼくは学生たちに卒論を書いてもらうときに、二つのことを要求します。
「オリジナルであること」と「説得力を持つこと」です。
言い換えれば「独特であること」と「他者の理解と承認をとりつけられること」です。
学術論文は、何よりも「独創的であること」を求められます。
当たり前ですよね。
誰かがどこかでもう言っていることを「発見」しても、何の手柄にもなりません。数学を独学した人が自力で「ピタゴラスの定理」を発見しても、誰もほめてはくれません。学術性の評価基準はなによりもまず、余人に先んじて、余人のなさざるをなす、ということです。
学術論文である限り、そのことは学生の卒業論文においても変わりません。
しかし、どれほどオリジナルであっても、オリジナルであるだけではやはり学術性には到達しません。
「私は金星人の円盤に同乗して、天王星を訪れ、かの星の人たちの社会をつぶさに考究してきた」という人の経験はなるほどきわめてオリジナルではありますが、これが学術性の域に達するためには、「金星人の円盤に同乗する」までの経緯について、あるいは天王星でどうやって呼吸したり、現地のみなさんと意志疎通をなさったかについて、読者をして説得せしめる「論拠」というものをご呈示頂かなくてはならない。
「だって、ほんとなんだもん」
というだけでは学術論文にはなりません。
現に、私たちが「現実」として経験しているもののかなりの私たち自身の認識論的なフレームワーク(言語やイデオロギーや宗教やコスモロジー)によって規定されており、他人に見えているものが私には見えず、私に経験されたものが余人には経験されない、ということは頻繁に起きます。
ですから「私の経験」や「私の確信」だけでは私の知見の汎通性は担保できないわけです。
真理(と言わぬまでも、知解可能性)は「他者による理解と承認」という共同的な信認の上に構築されなければなりません。
個人的なエッセイとアカデミック・ペーパーを隔てる決定的な違いは、アカデミック・ペーパーでは、その中で述べられている命題すべてが「追試可能」「反証可能」であるという条件を課されているということです。
「金星人との旅」が科学的言明として認知されないのは、それが「嘘」だからではありません(それを「嘘だ」と断言できるのは、金星人の円盤で天王星に行って、それとは違う経験をしてきた人だけです)。
それが科学的言明でないのは、それが「嘘である」ということを誰も論証できないからです。
おそらく、ほとんどの人が科学的であること、学術的であることを、これと反対の意味に解釈していると思いますけれど、科学性ということばには、「他者の理解と承認」を広範囲かつ持続的に獲得できる、という以上の意味はありません。
「他者の理解と承認を求める」というみぶりには、考えれば分かりますが、「裏の意味」があります。
それは「他者の誤解と否認」をも同時に甘受するということです。
他者は私の言明を理解してくれるときもあれば、誤解することもある。承認するときもあれば、否認するときもある。そのような「可動域のひろい共同的な知」を他者と共有し、そこを「科学的信認」の審級とすることに同意すること、それが「学術的である」ということの意味です。
「学術的である」というのは、永遠不変の真理の審級において語る、という意味ではありません。
そうではなくて、そのつど揺れ動き、時代とともに変化してゆく「共同的な知」のパラダイムに(それがマジョリティに支持されている「物語」であると知りつつ)あえて踏みとどまる「節度」のことです。
他者におのれの語る理説を理解し承認する権利は認めるが、それを誤解したり否認したりする自由を認めない学者を私たちは「学者」とは認めません。
彼らは「マッド・サイエンティスト」と呼ばれることになります。
もちろん、「マッド・サイエンティスト」は浪漫派的な夢想のすてきな培養基ですから、その社会的有用性を私は否定するものではありません。ただ、そのような人は「学者」とは呼ばれない、という名称の問題を語っているだけです。
話が横にずれちゃいましたけれど、私が学生さんたちに向かって求めているのは、「独創的であれ」ということと、その「独創性」は他者によって理解され承認されなければならないということです。
当たり前ですよね。
「お、独創的なアイディアじゃないか!」
と言ってくれる「他人」がいなければ、「独創性」というものは存立しえないんですから。
その意味で、「独創性」というのは逆説的なものです。
「独創性」というのは(「凡庸さ」がそうであるのとまったく同じように)「共同的な知のフレームワーク」の中にしか市民権をもたない概念です。
文脈依存的な概念であるという点では「自立」もそうですね。
「自立」というのは、「自立」した概念ではありません。
だって、他の人たちから、ことあるごとに頼られたり、忠告を求められたり、決定権を委ねられたり、責任を背負わされる人が「自立している人」なのであって、それはご本人が決めることではないからです。
「私は自立している」といくら力んでみても、まわりの人から意見を求められることも、集団の決定を委ねられることもない人は、共同的な水準においては「ただの子供」と同じ扱いを受けている、ということです。
その人が「自立」しているかどうかということは、その人に内在する資質や能力によって計られるのではなく、もちろん「自己決定」できるような種類のことでもなく、ただ共同的な「労働」の場で、その人が「他の人々から信頼されている」という事実によってのみ事後的に決定されることです。
それと同じように、「独創的」知見というのがもしあるとすれば、それは「他者から、『なるほど、それは私には思いつかなかったけれど、言われてみれば、ほんとにそうだよね』と承認されるような知見」のことです。
というようなことを、卒業論文を書く学生さんたちに諄々と説くわけです。
そんなわけで、「独特だけど、まとも」ということは学術性の原理そのものだとぼくは思っています。
■身体信号と居着き
平川くんは出来損ないの学術論文について、「さっぱりこちらの頭に入ってこないのは、ロジカルな語り口の中に、当の相手の『腑に落とす』という身体的な記号が無いことによるのだと思います」と書いています。
まことにおっしゃる通り。
どうして「腑に落ちない」のかというと、「その論文の理非にかかわる理解と承認」を平川くんに求めていないからです。
「他者による理解と承認」が学術性を担保すると上で書きましたけれど、その「担保者」として自分が召喚されていない、という印象を受けるとき、ぼくたちは「さっぱりこちらの頭に入ってこない」という印象を受け取ります。
つまり、それは「自分が読者に想定されていないテクスト」だということです。
ところで、いったいぼくたちはどうやってあるテクストを読むときに、「そのテクストの読者として自分は求められている」という実感を得たり、得られなかったりするのでしょう。
一頁読んだだけで、場合によっては三行読んだだけでも、「あ、これはぼくを読者に想定して書かれたものではない」ということは分かります。
その判断は、平川くんが書いているとおり、おそらくは「身体的」なレベルで起きていることだと思います。
なぜか「分かる」んですよね。
「三行読んだだけで分かる」という以上、それはテクストのコンテンツによって決まっているわけではありません。
なにしろ、まだ、話が始まってないんですから。
でも、文章の「息遣い」というか「温感」というか「肌理」というか、そういうものは三行で分かります。
そのかすかな身体的な信号に、こちらのやはり身体の深層にある「受信器」が「ぴぴっ」と反応するんでじゃないかとぼくは思っています。
「体感を信号的に送受信する」ということは、べつにじかに相手の身体に触れていなくても可能だ、ということを武道の修業をながくやってくるとだんだん分かってきます。もちろん、直接触れている方が圧倒的に信号の授受は効率的ですけれど、杖や木刀のような「無生物」を介していても可能ですし、離れていても可能です。
空間的に離れていても時間的に離れていても、ある種の「媒介」装置を適切に運転することができれば、体感はちゃんと送れるとぼくは思います。理論的には、ね。
「居着き」という武術的なタームを平川くんが使ってくれたので、それにからめて話をしたいと思いますが、ぼくたちが「居着き」ということばを使うのは、通常は空間的な意味ですよね。
恐怖や焦慮や不安といった心理的要因によって、足の裏がある空間的な位置に「固着」していて、どうにも身動きならなくなった状態。それがとりあえず「居着き」の起源的な意味です。
でも、最近思うのは、「居着き」には時間的な「居着き」というのもあるんじゃないか、ということです。
つまり、「過去」や「現在」に意識が固着している状態というのは、やはり「居着き」と言っていいんじゃないでしょうか。
前回にも書きましたが、体術の場合、たいせつなのは技を「かけ終えた」ときの体感(骨格や筋肉の状態、呼吸ののび、気の通り、相手が畳に身体をうちつける受身の音まで)をリアルかつクリアーカットに「想起」することです。
その「わざを終えた状態」を「現在」として、今の状態を「過去」にしてしまう。すると、ちょうど「リールが釣り糸を繰り込むように」、その仮想された未来の身体の状態に向かって、すべてがなめらかに繰り込まれてゆく。
ですから、身体が「現在」に居着いている者と、「未来」を先取りしている者とが接触した場合には、「未来の体感」をリアルに感知している人間の方が、そのあとの動きを統制する「先手」をとることになるわけです。
そういうふうに時間意識を微妙にずらして、その「未来の体感」を身体的な信号として相手に送り込むことができれば、理論的には活殺自在となる、というふうに今のところ考えているわけです。
もちろん、まだ理屈だけで、実際にはかなり気の感応がよく同調する相手の場合しか思うようにコントロールできないのですが、この方向で稽古してゆくと、かなり面白いことになりそうな予感がしているのです。
■未来の体感
この「時間的な居着き」を「未来の体感」によってコントロールするということは、実はK−1の武蔵選手から聞いた話がヒントになっています。
K−1のようなリアルファイト系の体術の場合、相手の打撃をもろに食らうという局面があります。理論的に言うと、そういう危機的状況においては、身体感受性を最大化して、危機に応じることが必要なわけですが、それだと同時に痛覚も最大化してしまう。
全身の感覚が細胞レベルまで活性化しているときというのは、痛みも最大化するというのがことの道理ですよね。
そのアポリアをどう解決するのですか、ということを武蔵選手にあったとき、まっさきに質問したのです。
武蔵選手は即答してくれました。
それは「打たれたときは、それをもう忘れて、二つ先のパンチが相手にヒットしているときの感じ」を想定して、それを「現在」だと思う、というものでした。
つまり、相手に打たれた体感は「過ぎ去ってしまった」時間帯に繰り込んでしまうわけです。だから、どこの部位にどういう種類の打撃が加えられて、どの程度のダメージを受けたか、というデータはすべてはっきりと分かっている。だけれども、それはもう「過去の出来事」なので、切実なリアリティはもうない。リアルなのは、「まだ到来していないノックアウトパンチが相手の顔面にヒットしている未来」の体感の方なのです。そして、そのクリアカットな輪郭をもつ「未来の体感」にむけて、「鋳型」に流れ込む溶けた鉄のように、すべての身体部位は精密に無駄なく滑らかに統御されてゆくわけです。
これには「なるほど、そうなのか」と実に実に「腑に落ちました」。
危機的状況に際会したとき、人間がとる行動は二つに分かれます。
ひとつは「身体感受性を最小化して、身体を石化し、嵐が過ぎるのをやりすごすこと」、いわば「時計を止める」やりかた、ひとつは「全身の身体感受性を最大化し、身体を液状化し、嵐に乗じること」、言い換えれば「時計を先に進める」やりかた、このふたつです。
人間は自然状態にあるときには、ほぼ例外なく前者を選択します。これはアメーバのような単細胞生物だった時代から、ぼくたちの細胞にしみついたある意味で「永遠不変の生存戦略」であると思います。狸の仮死状態と同じで、「殺される前に、死んでみせる」わけですね。
しかし、武道の修業がめざしているのは、あきらかに後者だと思います。
危機に遭遇したときに、自動的に身体反応を最大化する回路にスイッチが入るように訓練すること、それが武道修業の目的の一つであるとぼくは考えています。
どちらが「正しい生存戦略」であるかを一概に言うことはできませんが、生存戦略のオプションが「二つある」方が、「一つしかない」場合より、生き延びるチャンスが高いのは確かです。
「外傷的現在」を擬制的に過去のものにするためには、「未来」を「現在」とすり替えて、「まだ来ない未来に現時的なリアリティを与える」。
これは、実に汎用性の高い技法だと思います。
武術に限らず、この戦略は人間の経験するあらゆる「外傷」に適用可能であるものようにぼくには思えます。
平川くんの現場であるビジネスの場合でも、状況をどちらがコントロールするか、を競い合う場面というのは多いと思うのですが、そのときに、「過去」や「現在」に固着している人間と、「未来」を体感できる人間では、状況統御力に有意な差が出るんじゃないかとぼくは思っています。
明確な未来像をもっている人間の方がより状況についての理解が深いというだけでなく、人間は「明確な未来像」を体感として実感している人間に、「感染」してしまうからです。
「過去」や「現在」に固着している人間というのは、言い換えれば「未来」がない人間です。「未来」という時間区分のところが、まるで無地の画用紙のように、まるまるブランクになっているわけです。
そこに、こちらがばあーっと線を引いてしまうと、それには原理的に抵抗できないのです。
自前の未来をもてない人間は、他人の未来像を自分の未来像と「取り違えて」しまう。
体術では、この「未来像の取り違え」を術として行うことで、相手の身体を統御するわけですが、同じことは、人間と人間が出会うあらゆる場面に適用可能ではないかとぼくは思うのです。
■「変わらない自己」という物語
「自分探し」ということばは、ぼくも平川くん同様あまり好きではありません。
「自分探しをするのは、探している自分は変わらないということが前提にあるからだ」というのは重要な指摘ですね。
梅棹忠夫の『文明の生態史観』を読んだときに、文明には二つの種類がある、ということを教えてもらいました。
「変化するけれど、変化する仕方の変わらない文明」(例えば、強権的な独裁体制が滅びるときには、必ずカリスマ的な独裁者が登場して、新たな強権的独裁体制がとって代わる、というような文明)と、「変化するときに、変化する仕方そのものが変化する文明」です。
これはかなり「目ウロコ」的命題でした。
ぼくはこれを「凡人論・天才論」に適用して、「凡人とは、進歩するけれども、進歩する仕方がいつも同じ人」、「天才とは、進化する仕方そのものが進化する人」 という定義を下したことがあります。言い方を換えれば、同じ問いに遭遇したときに、「つねに同じ仕方で答える人間」と、「そのつど答えが進化する人間」の違いです。
「自己同一性」の神話がいつごろから、これほど人々のあいだに流布するようになったのか、ぼくは記憶が定かではありませんが、「どんな局面でも、同じ自分でありたい」というのは、ぼくの定義によると「凡人でありたい」と言明していることに変わりません。
一億人の「自分探し」というのは、一億人の「凡庸」志向ということですが、そういうのってちょっと絵柄としてはグロテスクですよね。
自分の変化の仕方が「変化したか変化していないか」をチェックするためには、「変化する前の自分」と「変化したあとの自分」を比較考量するだけでなく、「変化する前の自分」のそれより一コ前の状態から、「変化の仕方」の変化を見てゆかなくてはなりません。
面倒ですけど、そういうふうに「級数」的な経年変化を取らないと、「変化の仕方の変化」は点検できないんです。でも、そういう知的訓練を自分に課している人間というのは、ほんとうに少ないですね。
「危険には二種類ある」というのは最近、国際関係論の本を読んで教えてもらったことですが、これもちょっと「目ウロコ」学説でした。
危険にはrisk と danger とがある、というのです。
「リスク」は統御できる危険(つまり既知の危険)、「デインジャー」は統御できない危険(つまり未知の危険)です。
できあいのシステムを使ってリスク・ヘッジが可能なのは、既知の危険因子についてだけです。ケース・スタディで対処の仕方が分かっているトラブルだけです。
でも、デインジャーというのは、「リスク・マネジメント」のやり方そのものの「進化」を要求する種類の危険のことです。これにはできあいのシステムでは対処できない。現実に対処しながら、リスク・マネジメントのシステムそのものを可塑的な状態、オープンエンドに維持しておかなくてはならない。
平川くんが批判していたMBA的な知性というのは、言い換えると計量可能な「リスク」には対処できるけれど、見たこともない「デインジャー」についてはその可能性さえ考えたこともない人たちのことだと思います。
いまアメリカという国が外交政策から破綻し始めているのは、あの国の指導者たちが「MBA」的な知性によって占められ、「デインジャー」に真剣に対処できる知性を涵養することの重要性を忘れつつあることに起因するのではないでしょうか。
■大学とビジネス
大学とビジネスについてのご指摘、とても共感をもって読みました。
ぼくも「実学」ということばが嫌いです。
大学人で「実学」ということをお題目に掲げる人間には、「半ビジネスマン」みたいな感じの人間が多いのです(ちょっと産学協同的なプロジェクトの経験があるとか、経営者セミナーに講師で呼ばれたことがあるとか)。そういう人たちって、「君たちのような『タコツボ』型の世間知らずの学者は何もしらんだろうが、世間つうものはね・・・」というような半チクな説教を垂れたがるんです。
ぼくは「実学」というのは原理的にナンセンスだと思っています。
だって、そうでしょ。
ビジネスシーンでの知的需要がどんなものであるかを目端の利いた大学人が知るまでには、数年から十年のタイムラグがある(「ヴェンチャー」がいい例ですよね。ぼくたちが卒業したあとにヴェンチャー・ビジネスをはじめたころ、そんなものに対する市場の需要があるなんてことを大学の先生たちは誰も知らなかったんだから)。
「おお、世間ではこのような知的資質に対する需要があるようだ、ではさっそく本学でもそのための教育プログラムを・・・」と言って学内での合意形成を取り付け、カリキュラムが起案されて実施するまで、まず早くて三年。最初の卒業生が出るまで、それからさらに四年。
そのころには、日本中のあらゆる大学が同じような人材を組織的に送り出してくるので、市場の人的需要はどんどん少なくなってゆくわけです。
大学が「実学」として教えるような知的リソースの大半はその定義からして現実に対する「絶対的な遅れ」をキャッチアップできず、つねに「後手に回る」ほかないのです。
大学が教えるべきなのは、目先の「実用性」ではなく、「汎用性」だとぼくは思っています。
たとえば、外国語は汎用性の高い学科です。
それは、「自分たちとは違う統辞法で文を作り、自分たちは違う語彙で世界を分節する、自分たちとは経験の様式の違う人々」と人間はどのようにコミュニケーションできるか(あるいは「できないか」)についてのレッスンですから。適用範囲、ひろいです。
哲学だって、歴史学だって、文学だって、人間がそれなしでは生きてゆけない幻想と物語についての学なんですから、最強の知的ウェポンだと思います。
でも、学生やその親たちがとりあえず望んでいるのは、「実用的な専門知識」と「就職に役立つ資格」なんですよね。悲しいけれど、それが日本人が大学に期待している「最大限」なんですよね。
大学に対する社会的期待がここまで下がったのは、尽きるところは過去半世紀の私たち大学人の怠慢のツケなんですけれど、これについて自己批判をし出すととまらなくなるので、今日はここまでにしておきます。
ずいぶん長く書いてしまいましたが、だんだんエンジンがかかってきちゃったみたいですね。ではでは。