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その8 10月7日

釈から内田先生へ

 

 

「その6」では、すこし話しが雑になってしまったでしょうか。どうも、なんとか早く「日本仏教」にまで解説を進めたい、という意識があるものですから。

もう少し緻密に考えようぜ、というご催促かと存じます。

 

そこで、「その7」の最後にはこうあります!

「執着」とは何か、「悟り」とは何か、という点について、ぜひ私たち素人に分かるような仏教的解説をお聞かせ下さい。

うーむっ…(沈黙)。「執着」はともかく、「悟りとは何か」を書けとおっしゃいますか。えらいこっちゃ。

 

《悟りについて》

内田先生は、

「気分よく死ぬために、私は今何をなすべきか?」という問いをつねに自分に向け、あらゆる判断に際して、そのことを判断基準にする人がいたとしたら、その人はずいぶんと穏やかでフレンドリーで思索的な人物であるはずだ。

と表現されました。このような先生の語りの中にも間違いなく「悟り」はあると思います。また、仏教に限らず、多くの宗教が説くところでしょう。

もともと「悟り」は、単に「しっかりと体得する」という程度の意味で使用されていたと思われます。それが、仏教体系の発達につれて、到達不可能なほどものすごい理想へと展開します。

ですから、「自分というメカニズムを理解した」から、「根本的生存欲をコントロールする」、あるいは「自己の消滅」に至るまで、悟りには大小・幅があります。

白隠(1685-1768 この人はコオロギの声を聞いて悟ったそうです)は「大きな悟りは十八度、小さな悟りは数知らず」と語っています。

ちなみに、「完全なる悟り」=「アヌッタラ・サムヤクサンボーディ」=「阿のく多羅三みゃく三菩提(漢字が全部出ません)」という別称があります。小学生の頃、「レインボーマン」というやたら主人公が悩むヒーローもの番組があったのですが、変身するときに「アノクタラサンミャクサンボダイ」と繰り返し唱えるのです。師匠はダイバダッタという名前で、今から考えるとかなり宗哲マニア向けの番組でした。敵の名前は「死ね死ね団」で、ぐっと安易でしたが…(「空の果てには、何があるー」、とはいったい何という番組の主題歌なのか、気になって仕方ありません)。

 

《共鳴心性》

さらに、先生が語られました「加齢」や「なすべき仕事が達成された実感」や「部分的な死」が、「死のレッスン」・「老いのレッスン」・「病むことのレッスン」であるという部分。臓器移植やしわとり手術は、苦を倍加させているということ。まったく同感です。先生のこのような感覚はやはり武道から得られたものなのでしょうか? それともレヴィナシアンとは、そのような感性を養うものなのでしょうか? まるで、お坊さんのお説教を聴聞しているような錯覚をおこしそうになりました。今回、内田先生にも脈々と仏教のセンスが流れていることを確信いたしました。

 

新渡戸稲造は、『武士道』の中で、ベルギー人の法学者に「あなたがたの学校に宗教教育というものがないのなら、いったいどうやって道徳がありえるのか」と詰問されて、愕然としたことを書いています。それから、稲造は考え抜いた結果、日本人の道徳心が武士道にあるとの結論に至ります。

この武士道のみならず、華道や茶道から落語や演歌にいたるまで、肌感覚化・無自覚化した仏教を見ることができます。

よく宗教を「制度宗教(キリスト教や仏教など、狭義の宗教)」と「自然宗教(アニミズムやシャーマニズム、自然への畏怖や、生への不安といった広義の宗教)」に分けたりするのですが、このように制度宗教が肌感覚にまで拡散した形態を、私は「市民宗教」と呼び、三つに分けて考えています(通常、市民宗教という語は別の意味に使用します)。

内田先生の感性や価値観にも、市民宗教化した仏教がかなり影響を与えているのじゃないか、という気がするのですが。ご自分ではどう思われますか?

鈴木大拙によれば、『葉隠』のバックボーンは禅、らしいです。私は、『葉隠』を読んでもなんだか老人のグチみたいな気がするのですが、先生が引用された「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という部分はやはり思わずドキッとします。そのあとには、「二者択一にせまられたら、イヤな方(死)を選べば恥をかかない」というものすごい倫理観が展開されます。このような美意識に、深層に眠る共鳴板を振動させる人は結構いるのではないでしょうか。

有名な、西行の「ねがはくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」にも通じる死をコントロールしきった美。「はたして死は解決不能な苦しみなのか」とおっしゃる先生の言葉に、文化的心性がシンクロします※。

 

※このような文化の伝達や複製の基本単位を、ドーキンスは「ミーム」と呼んでます。人間の行為や思考には、「利己的な遺伝子」だけでは説明がつかないようなものもあり、それを「ミーム」と名づけたわけです。この概念その後、いろいろな意味に使用されていますが、ときにこのミームが遺伝子よりも優先されるわけです。この拮抗は、宗教性の問題にも大きく関わる問題だと思います。

 

《執着について》

しかし、「病い」や「死」の苦は、そう単純じゃないのでは、という気がします。

「生きる」ほうが「死」よりも苦しいという場合もあります。また、「病い」も「死」も、なにも自分の身に限ったことではありません。例えば、お子さんがあまりにも不条理な病いに罹患されたら、あるいは亡くなられたら…。親・兄弟が死んだら…。 

子供は「自分の死」とともに、「もし今、親が死んだら…」という恐怖を抱えています。自分はまだ保護する者なしで生きることができない無力な存在である、という恐怖(なぜフロイトはエディップスコンプレックスより、こちらにもっと注目しなかったのでしょうか)。

さらに、子供の死、という絶望的な状況におかれても、なお私は生きていけるわけです。お腹もへるし、しばらくしたらあははと笑うことだってあります。これもある意味、大変悲しいことです。わが子の死を突きつけられても、なおどこかで「自分じゃなくてよかった…」という潜在的意識さえあるかもしれません。

先生もご存知のように、ドーキンスの論は賛否両論ありますが、彼の主張による一番の衝撃は「利他行為さえ、遺伝子の戦略だ」というものではなかったかと思います。

子供のために身を捨てるのは、自分の遺伝子を残すため。他者への自己犠牲は、自分の遺伝子が社会で排除されないため。…という説明でした。

自己への執着とは遺伝子レベルの話になってしまいますね。えらいこっちゃー。

 

ところで、私はかなり子供が好きなほうです。昔から、他人の子供でも、関わりたくなるほうでした。ところが、自分の子供が生まれると、それまでよりも他人の子供を分け隔てするようになった気がします。自分の子供に都合がよい子供がかわいい、というミもフタもない、新しい執着の発生です。

かつて、ビデオカメラのCMで、こういうのがありました。学習発表会で、木の役をやったり、音楽界でトライアングルをチーンと一回だけ鳴らすだけのわが子を、親がアップでビデオ撮影しています。劇の進行や見どころなどは、どうでもいいわけです。

「どうしてお父さんやお母さんが捕ると、ボクが主役になるんだろう」とかいうコピーがついていたように思います。これが執着です。まさに、カメラのフレームを通して覗くがごとく、自分の枠組みでものごとを見ているわけです。

 

 

《五戒と中道》

「自己への執着」という言葉の内容を具体的に詰めてゆかないと、なかなかそれがどういう営みを指すのか、私たちには理解が届かないところです。「五戒」や「中道」や「バランス良い生活」とはいかなる生活であるのか、それがどのような理論的・実践的な努力を要するものなのか、どのような人間観、死生観、宇宙観に基礎づけられて成り立つものなのか、そのことを私としてはもっとじっくり吟味したいと思うのです。

 

「おばさんの死」と「カラスの啼き声」で出てきました、「私にとってこれほどの重大な出来事」だから「自らの都合にあうものを選択」する。これは、「自己への執着」の具体的例だと思います。他にもいろいろと良い例がありそうですが、思い浮かべばそのとき書かせていただきます。

それでは「五戒」についてお話させてください。1. 不殺生戒(=生き物を殺さない) 2.不偸盗戒(=他者が所有するものを盗まない)3.不邪婬戒(=よこしまな性行為をしない。不倫とかダメ) 4.不妄語戒(=嘘、詭弁、お追従、不確定なことを言わない。二枚舌、予言などもダメ) 5.不飲酒戒(=お酒を飲まない)の五つです(『長阿含経』)。ああ、すでに四つもダメじゃん、などという方は多いと思います。

五戒の「戒」は原語でシーラといいます。「習慣を実行する」というような意味です。仏教では、神への契約といった律法はありません。戒律を破っても別に罰があるわけでもない※。習慣づけていこう、という項目です。朝、歯を磨くのと同じように、生き物を殺さない習慣を身につけていこうじゃないか。お風呂に入らないと気持ちが悪い、と同じレベルで他人のものを盗まないでおけるような肌感覚を身につけようじゃないか、という感じです。

 

「中道」は、快楽と苦行の両極端を経験したシャカが最初に説いた思想だと言われています。

J.ベンサム(1748-1832)は「人間は快楽と苦痛に支配されている」としました。そして、「われわれに何をするべきかを指示し、われわれが何をするかを決定するのは、ただこの二つだけである」と考えます。したがって、快楽の増大と苦痛の減少こそが行動原理であるとして、幸せを数値化します。功利主義(Utilitarianism)というやつです。

しかし、シャカは「快楽にも苦痛にも支配されてはならない」と考えたわけです。

現代でも、「緊張と弛緩」「遊びと仕事」「勤勉と怠惰」など、さまざまな場面にも適用できるかと思います。

 

※ただし、出家者はひどい悪行をするとサンガから追放されます。なぜなら、当時からインドでは、宗教集団は社会とは別の枠組みを認められていたからです。たとえ犯罪者であっても、その扱いはサンガにまかせていたわけです。また社会的義務等も免除されていました。だからこそ、サンガは社会よりも厳しい規範によって運営されねばならないのです。  

 

《そこへと至る道》

「死」や「病」や「老い」にどう対処するのが適切なのか?

どのようにして自我への執着から解脱することができるのか?

 

これは、先生自身がお書きになっている「正しい老い方」・「正しい衰え方」・「正しい身の引き方」・「正しい病み方」ということになります。八正道でも同じようなことを説きます。

では、いったいどんなものが「正しい」のでしょうか? 

このあたり、仏教はあまり具体的ではありません。ユダヤ教だと、「何親等までの肉親とは性交渉をしてはならない」とか、「軽はずみな誓いを立てたら、小麦粉を何リットル供えよ」とか、「盗んだら、その5分の1を補償せよ」というように、ものすごく手取り足取り「正しい」ことを説明してくれます。 

しかし、仏教では大きな方向性を示すだけです。それを頼りに、自分で歩いて行くわけです。「あっち向いて行きなさい」の矢印はだすのですが、「あと何分かかるのか」「どんな手段で向かうのか」「どんな準備が必要か」という疑問には、「それは多様である」と応えるわけです。

実際に仏教では、さまざまな部派に分かれて、それぞれの道を体系化していることは、ご案内のとおりです。

 

《保留テーマ》

「気分よく死ぬために、生きている間に何をなすべきか?」

これはこれから浄土仏教に入ってからのテーマとして使わせていただきたいので、保留させてください。持仏堂をご覧いただいているみなさんも、覚えておいてくださいね。

 

というわけで、今回の内田先生は、ご自分で問い、ご自分でお答えになられました。

禅問答の「問うところは、答えるところなり」といった風情です。これ、最近、ある禅師に指南されたばかりなんです。早速、使っちゃいました。

 

<その8>は、先生の文章を横目に読みながら書きましたので、話がとびとびで読みづらいかもしれません。ご容赦を。

それでは失礼致します。

 

追記:最後に少し「仏教の展開」の続きを進めさせていただきます。

【 仏教のお話・その2 】

《根本分裂へ》

シャカがその80年の生涯を閉じたのち、すぐに結集(けつじゅう)と呼ばれる会議が行われました。教団の中心人物たちが集まって、シャカの教えをお互いに確認し合ったわけです。そんなことをしながら、次第に仏教のオーソドキシィが出来上がっていきます。

しかしシャカ滅後、100年ほど経つと、保守派(上座部)と改革派(大衆部)とが対立します。戒律や生活様式の伝統を厳守しようとする保守派と、事情に合わせた柔軟な対応を主張する改革派とに教団が分裂します。これを根本分裂といいます。

ガンジス河の北に「ヴァッジ」という国があって、当時すでに選挙で指導者を選び、合議制で政治を行っていたそうです。首都のヴェーサリーは、さまざまな民族交差する商業都市で、自由主義的気風をもっていたと言われています。大衆部は、このヴェーサリーの修行者たちが中心でした。

 

《そして大乗仏教が誕生した》

−複合的要因−

かつては、大衆部の人たちが大乗仏教へとステップアップしていった、といわれていました。しかし、現在では「ストゥーパ(=シャカの遺骨を納めた塔)」に参拝する在家信者たちが中心となって大乗仏教運動が起こった説が有力です。いずれにしても、複合的要因が重なったのではないでしょうか。

・大衆部(革新派)の動き。

・ストゥーパに集った在家ブッディストたち。

・西アジアや南インドなど、異文化の混交。

などがクロスしながら、仏教の自己批判・自己変革が進んだと思われます。この動きを、律法を守ることが重視されたユダヤ教から、愛の実践中心を説くキリスト教への展開になぞらえる人もいます。あるいは、教条的カトリックに対する純粋信仰運動としてのプロテスタント誕生になぞらえる人もいます。まあ、わかりやすい譬えではありますが…。

 

−噴出するパトス−

仏教の理想をひとことで言うと、「無執着」です。なにものにも執着しない、ここを目指します。だから出家者は所有物を最小限にし、社会生活から遠ざかるのです。執着は煩悩(悟りを邪魔する欲望)を生み出します。なんとしても煩悩を消滅させねば…。

大乗仏教者たちは、保守派の出家者たちに「キミたちは煩悩を切り捨てることに執着しているのではないか」という指摘をします。

上座部にとっては、痛いところを衝かれました。なかなか見事なリクツです。「いろんなシガラミからは脱却したかもしれないが、仏教という新しい別のイガタにはまっている」そう指摘されたわけです。ここに至って、仏教は仏教自身を解体しなければならない、というとんでもないパラドックスにぶち当たります。

そして、仏教はついに「空」の完成へと到達するわけです。ようするに、普通の生活をしていても、それに固執さえしなければよいのであります。

大乗仏教は、智慧に対して慈悲、理知に対して信仰、というスピリチュアルな情念(パトス)の噴出がその推進力です。

正統派の出家者たちによって、仏教がものすごく理知重視になってしまいました。それに対して、人々の宗教的情念といいますか、パトスといいますか。そういうものがどばっと噴出したのが大乗仏教運動ではなかったかと思います。 

いくら高邁な思想であっても、「仏教に出会うことによって、救われる。生きていける」という部分が抜け落ちてしまっては、宗教としては死に体です。

大乗仏教は、出家者中心の形態に疑問を提示したり、理念に偏っていた仏教に宗教的パトス(情念)を吹き込んだわけです。言葉を変えれば、「仏教の大衆化」であるとも言えます。  

結果、「仏教の大衆化」という現象によって、さまざまな民俗信仰が交じり合うこととなりました。例えば、さまざまな如来が理念のシンボルとして登場します。古来の神々がブッダとして語られたりもします。

ということで、ブッダが満ち満ちた世界観が出来上がります。高度に洗練された理念と、土俗のカミを信仰するという大衆化された形態、この二面性が大乗仏教の魅力です。

 

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