その8プラス1 11月26日
釈から内田先生へ
みなさんご存知のように、内田先生は殺人的スケジュールをこなしておられます。
ご本人いわく「なにがなんだかわかんねーや状態」だそうです。そこで、更新の合間をぬって、釈の仏教解説を進めさせていただきます。幕間の場つなぎと思ってください。H出版のFさんの言葉をお借りしますと、「間狂言(あいきょうげん)」です。
ところで、仏教解説と並行して、「そもそも宗教って…???」というあたりも少し考えてみたいと思います。
おそらく、このHPご覧のみなさん、大部分は「とりあえず今の私に宗教は不必要。いや、宗教なしで立派に生きていければ、それにこしたことはない」とお考えなのでは。
「宗教」って、必要なのでしょうか。
ちょっと、いろんな人の意見に耳を傾けてみましょう。
【 宗教などいらない人 】
竹内靖雄氏 … 「宗教はサービス産業化していき、他のサービス産業に取って代わられていく」。
森岡正博氏 … 「誰かが到達した真理には興味がない。だから私には宗教はいらない」。
上野千鶴子氏 … (キリスト教の家庭に育ち、仏教に興味をもって参禅などもしたらしい。しかし、あるとき宗教から決別した)「宗教は人類が在り続ける限り存続するだろうが、私は世俗の中で生きることを選択した」、「他者の超越的物語に私が生きることはできない」。
他にもいろんな人が宗教について語っておられますが、「宗教いらない派」の意見は、「宗教そのもの自体、不用」という意見と、「私にとっては不用」という意見に大別できます。その分岐点は、宗教は他のものと代替可能(サービス産業とか科学とか)と考えるのか、それとも代替不可能と考えるのか、にあります。
【 宗教は必要だと考える人 】
河合隼雄氏 … 人が幸せに生きるためには「魂の物語」が必要。
ひろさちや氏 … 人間と動物の違いは、宗教があるかどうか。宗教がなければ動物。
宮台真司氏 … 宗教は社会で救われない人が最終的に救われる場所。
こちらは、それぞれ「宗教の機能」について取り上げているって感じですね。
それでは釈の意見はどうなんでしょう。えー、それはいったん棚上げにしまして(笑)、先にもう少し宗教についての考察を進めます。
「宗教は必要か?」という問いへの答えは、「何を宗教と呼ぶか」によって大きく変わってしまいます(あたり前か)。「宗教とは何か」という問いに対しての答えは、宗教研究者の数ほどあります。
J.M.キタガワは「いまだかつて、『宗教』という用語について、関心をもつ者すべてを納得させるような、十分な定義を提出した者は誰もいない」といいました。その通りです。内田先生の「宗教の定義」はどのようなものなのでしょう。わくわく。
ま、まずはわかりやすいように宗教の形態を、
(1)「制度化・体系化されていないもの」と
(2)「制度化・体系化されたもの」
に大別しましょう。私たちは一般に(2)の「制度化・体系化された宗教」を宗教と呼びます。《制度宗教》ともいいますが、キリスト教や仏教あるいは神道など、いわゆる「宗教」のことです。これは、<狭義の宗教>です。
これに対して、(1)のように、制度化・体系化されていない、ある「行為」や「状態」、さらにはある「感情」や「思考」なども、広い意味で宗教に含まれます。<広義の宗教>です。
アニミズム、シャーマニズム。タブーや死者儀礼。共同体における通過儀礼や強化儀礼。怨念と鎮魂。様々な共同幻想。などなど…。
このような制度化・体系化以前の宗教、原初的な宗教形態を《自然宗教》などと呼んだりします。創唱者や教義もない、自然発生的な宗教です。
また(1)の中には、自覚されないほど、あるいは目に見えないほど肌感覚になってしまった宗教性も含まれます。《制度宗教》のとんがった部分が削られて、文化になってしまっている事態とか。もうその価値観や感覚が民族性にまで、一般化しているとか。本来は宗教行為だったのに、もうその意味を誰も問うことなく行っているとかね。こちらのほうは《市民宗教》と呼んで、《自然宗教》と区別することにしましょう。そのほうがわかりやすそうですから。
たとえば、来世観などは《自然宗教》というよりは、《制度宗教》が気化したような部分(つまり《市民宗教》)が大きいと思うんですよね。べつに特定の宗教を信じていなくても、仏教やキリスト教などの来世観を感覚的にもっている人は多いんじゃないでしょうか。あるいは、欧米の一部に見られる人工妊娠中絶に対する嫌悪ぶりは、もはやカトリックの倫理というよりは、肌感覚にまで拡散しています。日本の無常観や死生観も、仏教や道教の体系が蒸発して形成されてきました。
※この制度宗教・自然宗教・市民宗教という分類は、今のところこの話の中だけしか通用しません(これらの用語は別の意味で使われています)。
さらに、これら、宗教としての形態を生み出したり、支えたり、コミットしたりする原質が、《宗教性》と呼ばれます。これはたとえていうならば私たちひとりひとりがもっている「共鳴盤」のようなもので、ある波長に共鳴するメンタリティ(内面的態度)です。「共鳴心性」と名づけるのはどうでしょうか。
生の営みにおいて直面する不条理。大いなる自然への畏敬。聖性。宗教的象徴。自己の不確実性。不安。死への恐怖と憧れ。他者とつながりたい、共同体とつながりたい、という衝動や欲求。あるいは、怒りや暴力といった、社会や日常の枠組みでは処理できないような高いポテンシャル。などなど。さまざまなものが私たちの共鳴心性をゆさぶります。
当然、「宗教とは何か」を考える場合、《宗教性》のような内面の問題も含まれます。
というわけで、「宗教は必要か?」という問いに対して、「広い意味での宗教」を語るなら、そもそもこの問いは成立しません。「そこに人間の生の営みがある限り、宗教は必ずある」といわざるをえないからです。<広義の宗教>は必要・不必要に関わらず、私たちの内面や環境に存在しちゃいます。直接関わっているつもりはなくても、政治や経済や法律などが必ず生活に存在しているようなものです。「私には仏教は必要ない」と言ったり、「私は無神論者です」と言うことはもちろんできますが、「私には宗教は必要ない」というのは宗教への誤認識です。本当の無宗教になるには、「<無宗教>教という宗教の信者にならなければならない」というパラドックス(笑)。
だから人は「宗教性を成熟させなければならない」のではないでしょうか。少なくとも、一度は宗教について、自分なりに取り組み、それなりの解決をつけねばなりません。言ってみれば、経済理論は必要なくても、きちんとお金の使い方は学ばねばならない、ってところです。普段からお金を使っていないと、使い方は当然ヘタになります。お金の使い方が、成熟してなかったり免疫がなかったりすると、身をほろぼすことだってありますから。
「宗教なんてこわくない」(by 橋本治氏)などというのは、「お金なんてこわくない」と言っているようなものです。「あたり前じゃん」と思う人もいれば、「いやカネはこわいでぇ、あんなこわいもん他にないでぇ」と言う人もいるわけです(なぜか関西弁)。
つづく…。