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その8の2

釈先生からウチダへ

 

仏教解説と並行して、「宗教を通して見る現代ニッポンの苦悩」(ちょっと大仰だなぁ)を語っちゃおうかと思いたちました。順番からいくと今回は「仏教解説」なのですが、「その8プラス1」の続きが先になってしまいました。

 

【 日本人※は宗教オンチか?! 】

一昨年の同時多発テロからイラク問題にかけて、イスラム社会への関心が高まっています。また、今も続くイスラエルとパレスチナ、インドとパキスタンの緊張、続発する民族問題や分離・独立問題など「世界情勢を知るには「宗教」への理解は不可欠」といった認識が一般化しています。

書店には宗教関係の本がずらりと並んでいますし、宗教を特集で取り上げるテレビ番組も少なくありません。有名宗教者のCDやビデオなども発売されています(瀬戸内寂聴の法話ビデオとか、般若心経の心を知るCDとか…)。NHK研究所は、80年代においてすでに、現代日本には「宗教回帰現象」が起きていると表現。お遍路さんがブームになったり、寺社仏閣を巡るツアーは数多く企画され、インターネットの世界は<宗教>を語りたがる人たちで溢れかえっています。あ、持仏堂もそうか。

それなのに、多くの「宗教研究者」は、「日本人は宗教を知らない。だからだめなんだ」と言います。

「宗教がわかってないから、世界情勢にもニブイ。外交もできない。倫理道徳もない。援助交際もする。生きる力が弱い。アノミー(自由による苦しみ)から脱出できない。教育がなっていない」

と、まるで「雨が降るのも宗教のせい」といわんばかりの主張だって見かけます(小室直樹氏とか)。

確かに、<宗教>というものは「文化や文明のコア」ではありますが…。

 

よく「宗教に対するイメージ調査」を様々な新聞社が行ないます。その中で、約70%程度は、「自分は無宗教だ」と答えています。だいたいこれはどの調査でも似たような数字ですね。

ところが、「宗教は大切と思うか」という質問に対して、50%から80%くらい(年度や質問方法によって違う)の日本人は「大切である」と答えます。

多くの人が「大切」と考えながら、ほとんどの人が「無宗教」と答える???

このような矛盾はなぜ起こるのでしょうか。それは、「特定の宗教教団の信者ではありません」という意味で「無宗教」と答え、宗教性というようなメンタリティは「大切」と言っているつもりなのだろうと思います。

「その8プラス1」の分類でいくと、「制度宗教」は嫌いだけど、「自然宗教」や「市民宗教」は好き、という感じでしょうか。

ちなみに、日本にある宗教法人の信者合計数は2億人をはるかに超えています※。これは日本だけの現象らしいです。

みなさん、お正月の初詣にいったい何人の人が行かれるかご存知ですか。なんと九千万人を超える年があるのです。きゅうせんまんにん! ですよ。人口一億二千万人の中には、赤ちゃんや移動不可能の方もおられるので、この数字は当然、のべ人数です。同じ人が数カ所まわったり、寺社の発表が警備上の報告だったりするのですが。

まあ、何分の一に割り引いても、とんでもない数字です。メッカに巡礼するムスリムもびっくり! 「ああ、なんと日本人は宗教心の篤い民族だ」と思うはずです。

いったい、日本人は宗教が好きなのでしょうか、嫌いなのでしょうか。

 

日本の宗教文化は、「その8プラス1」でお話しました「制度化・体系化されていない宗教(自然宗教や市民宗教)」に関してはかなり発達していると思います。その意味では、大変宗教性が豊かな文化であるといってよいでしょう。「制度化・体系化されていない宗教」の特徴は、無自覚である場合が多いというところにあります。ヘタすると本人が宗教行為だと気づいていない場合さえありえます。  

日本人は、「聖なる場や空間」に行くとビビビと感じたり、敬虔な気持ちになるといったアンテナはすごくいいものがあるんじゃないでしょうか。「その8プラス1」の言葉を使えば、「共鳴盤」がでかい、あるいは敏感、という感じです。西田幾多郎が日本オリジナルの哲学を模索して、「場の論理」に行き着くのも無理はありません(あの、イヤホーンステレオや携帯電話は、ビビビと「場」を感じるセンスを鈍化させるだろうなぁ)。

また聖と俗を往ったり来たりする能力も高いと思われます。世界にはあちら側へ往きっぱなしの宗教性も数多くありますから(笑)。

 

【 シンクレティズム(習合宗教)のメンタリティを評価する 】

私たちの日常生活には本当に宗教性の高いものがあふれています。初詣のような「イベントや儀式」であれば、クリスマス、バレンタインデー・彼岸・お盆・初宮・七五三・結婚式・葬式・法事・祭り・地鎮祭・還暦・節分…、ちょっと考えただけでもこれくらいは出てきます。世界的に見ても、けっして宗教行事が少ないほうではありません。むしろ、多いほうだと思います。

また、「文化様式」だと、神棚・仏壇・地蔵・慰霊碑・厄除け・家内安全・交通安全・合格祈願・お守り・ジンクス・占いなどは、一度も関わったことがない人はいないはずです。朝から全民放各局が「今日の運勢」を放送したり、雑誌に必ず占いが載っているお国柄ですから。

あるいは、「習俗」においても、迷信・俗信・しつけ・たしなみ…などなど。そういえば社会学者の大村英昭氏は、日本宗教の形態を「たしなみの宗教」と名づけました。うまい!

 

他にも、例えば、日常でもよく使う「おかげさまで」なんて言葉は、主語がありません(日本語に主語が不要な表現の多いことはご承知の通りですが)。よく大阪人が「もうかりまっか?」、「ぼちぼちでんな」という意味不明の挨拶をするという指摘がありますが、本物の船場商人は「ぼちぼちでんな、おかげさんで」と言わねばならないそうです。

いったい「何の」おかげなのか。それは、まわりの人の、ご先祖の、運や天の、神仏の、まあとにかく自分の力だけではないというへりくだった言葉使いですよね。これは一神教文化圏が「神のご加護によって」、「神がそれを望んだ」という言い回しと同じです。こんな中に身をおきながら「日本人は宗教オンチ」などとはいえないでしょう。そんなことを言う人は、よほど宗教という概念をせまく捉えておられるのだろうと思います。

 

「日本人は宗教を知らない。だからだめなんだ」や、「あなたは宗教というものがわかってないから怖がっている。よく知れば別に怖くもないし、必要でもないんですよ」というのは、宗教の思想性やシステムなどの側面を語っているのでしょう。

 

でも「儀礼性」とか、「身体性」とか、「場」であるとかがいかに宗教において大きな意味をもっているかを見落としておられるんじゃないでしょうか。頭で宗教を理解してしまっている、と言ったら言い過ぎかなぁ。というのは、先ほど列挙したようなイベントや占いなどが「本当の宗教ではない!」という判断を下すのは「制度化・体系化された宗教」だからです。

 

しかし、日本人が 「制度化・体系化された宗教(狭義の宗教ですね)」を苦手としているのは本当です。だからその意味においては、各氏の指摘は間違ってません。日本人には「制度化・体系化された宗教」を苦手としているのを、良し、としている傾向があります。これは「信条や思想をはっきり表明しない」ほうが、共同体の中に埋没するには都合がいいからかもしれません。

また、国家神道を軸とした時代に、宗教と習俗をわざとごっちゃにした経験が影響しているからかもしれません。ほかにもいろいろと原因は考えられるのですが、とにかく制度化・体系化された宗教よりも、そうでない宗教的態度のほうが高い評価をうける文化であることは確かです。

日本の宗教性をもっともよく表現しているといわれる西行法師の歌、

「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

という感覚。「どなたが祀られているのか知りませんが、ああなんだかありがたいなぁ。ポロポロ、涙」。

これは私たちにとってとても共感しやすい感覚なのですが、ほんとに感覚だけってことです。思想化、教義化されていません。そんなものはイカン、まちがっとるという制度宗教はかなりありますから。

現在「制度宗教の解説書」が氾濫している原因のひとつはここですね。この温度差に対して、なんとか理解しようという動きなのでしょう。これは日本人だけではなく、世界中が様々な「制度宗教」について知らねばならない時期にきているようです。

だって世界各国がすごく身近かになっていますものね。

もし、日本人が「制度化・体系化された宗教」をきちんと理解できるようになれば、現在問題となっているキリスト教諸国とイスラーム諸国の橋渡しさえ可能なんじゃないでしょうか。国家レベルだけではなく、個々人として、ですが。

というのは、「宗教において軸をもたない」という特性があるからです。先進国では日本の文明だけです。

 

【 日本の宗教文化:近世からの展開 】

日本ははやくから「世俗化(secularization=宗教の相対化)」が進んでいた社会です。

もともと日本宗教文化を支えてきた仏教は「自己の相対化を目指しトレーニングする」という特性をもっています。そして、仏教と相互依存しながら展開してきた神道も儒教も、個の確立よりも共同体維持を優先する宗教体系です。いずれも「絶対普遍」を相対化しようとする体系なんですね。

さらに江戸期においては、それぞれの宗教セクトが相互共存する政策が施行されます。江戸時代初期から幕府は、宗教間や宗派間の争いが起こらないよう統制し、諸宗教・諸宗派の利害がなるべくバッティングしないで共存できるようにしていきます。

日本宗教文化は、近世においてすでに世俗化が展開されていたといえます。

梅棹忠夫氏はよく「日本の近代は織豊政権からはじまっているとかんがえる。日本最初の近代人は織田信長である。かれは宗教的権威を否定した」(「梅棹忠夫の文明巷談」)とか言いますが、その論理でいけば江戸時代は日本にとって欧米とは違う形の近代化時代であったわけです。

江戸の中・後期あたりになると、日本人のアイデンティティー模索から国学などが盛んに展開します。商品経済が生まれ、合理主義が蔓延し始めます。

思想面においては、不寛斎ハビアンがキリスト教と日本宗教を精緻に比較研究する。町商人の息子だった富永仲基は「加上(かじょう)」という論理をもって、仏教を解体して見せる。金融屋の番頭・山片蟠桃は、神秘主義を否定し、無神論を展開しながら、宗教の本質を論じる。井原西鶴の作品などが「人間中心主義」の思想を展開する。

おお、なかなかたいしたもんじゃないですか。

その頃、各伝統宗教教団は何をしていたのでしょうか。もっぱら「宗学」とよばれる教義論や教学論に没頭しています。おかげで、伝統教団内部においても、宗教の合理化・脱呪術化が志向されます。

その結果、宗教は内面化していきます。日本人にとって宗教とは、「心の問題」になっていくわけです(実はこれは、キリスト教の近代化にも共通するところです。これに対して、ユダヤ教やイスラームは近代の洗礼を受けてもなお、内面だけではなく「どう行為するか」を重視します)。

みなさんは、「外国に行くと、宗教を尋ねられるので、ウソでもいいから仏教徒だ、などと答えないとだめだよ。あちらじゃ、無宗教などというと動物と同じに見なされちゃうよ」といった話を聞いたことがありませんか?

このことは、かなり以前から言われてきました。確かに、入国手続きの書類には「宗教」を書きこむ欄がある国だって多いです。「無宗教」という言葉は、ある文化にとってはたいへんな非人間的な印象をあたえるようです。

五千円札の新渡戸稲造は、ベルギーの高名な法学者に「えっ、キミの国では宗教を教育しないのか! それでどうやって道徳を教えているのですか」と詰め寄られ、言葉がでなかったそうです。

明治以降、欧米の一神教的宗教観に接した日本人は、きっとそれまでの価値観が揺らいだことでしょう。

「信仰がなければ動物」!! これはショックです。どひゃー、やっぱり日本人はだめだぁー、となります。日本では世俗化が進んでいたので、多くの人が「宗教?えっ、神さまや仏さまのこと? 敬う気持ちがあればいいのでは…。どこの信者でもないよ。ご先祖まつってりゃそれでいいじゃないのかい」程度に思っていたのですから。

でも相手はその<宗教>こそがアイデンティティーだったわけです。

さらに、その<宗教>によって支えられている自我の強いことといったら…。

世界とわたりあうには、統一規格的宗教が必要だっ、と実感したに違いありません。

そこで、同じようなものを探して、行きついた先が「国家神道」でした。天皇を中心とした擬似一神教です。

…失敗(涙)。

 

【 宗教への関心 】

 

「なんだ−宗教を通して見る現代ニッポンの苦悩−とかいって、日本宗教文化を肯定しているだけじゃん」、とお思いの方。これは私たちに染み込んでいる「近代キリスト教的宗教観」の枠組みをはずすために必要な手順なのです。

えー、問題はこれからです。

さてさて、現代の「宗教への関心」の方向性は大きく分けて、四つほどありそうです。

ひとつは、「世界情勢」です。確かに宗教や民族の問題が噴出しています。さまざまな宗教文化を理解せずに、相手を尊重することなどできません。

2番目として、「生命・環境」に関する問題意識を挙げることができます。例えば、クローン人間などに代表される「生命操作」をどう考えればよいのか、といった問題。生命観や死生観を再認識しなければならないわけです。また、生態系や地球環境などに目をやるとき、私たちはもう一度根本から考え直さねばならない必要性を感じます。

3番目は、しばらく科学や理性の発達によってすみっこに追いやっていた問題の再燃です。つまり、「人生に意味はあるのか」、「死後の世界」はあるのか、といった問題です。

生きがいや楽しみ、といったものがなければ「なぜ生きなければならないか」という袋小路に入ってしまうのが近代社会です。

4番目は、カルト問題です。今やカルト教団に無関心ではおれません。カルトは宗教カルトだけではなく、倫理を標榜したり塾を経営したりする思想系カルトや、自己啓発セミナーなどの商業系カルトなど、さまざまな領域でトラップを仕掛けています。知識があっても、狙われると取り込まれます。まして、なんの知識もなければ、イチコロですね。

これ、ひとつずつ、考えていこうかと思います。というわけで、キリスト教やイスラムの解説をしないといけなくなりましたー。

 

                               つづく…

 

※こういう「日本人」という言葉の使い方をすると、「何を日本人の定義とするか」、「日本人といっても地域差がはげしくひとくくりにできない」という問題がでてきます。でも、取り扱っているテーマが、「おおざっぱな言い方をすることによって語ることができる部分」ですので、ご寛容ください。お読みになるほうも、おおざっぱにお願いします。(言い訳の多い男だなぁ)。

 

※手元のデータ(『宗教統制調査』文化庁)によると、全仏教徒は約6000万人から9000万人となっていますね。神道は、約9000万人から11000万人。おお、ほぼ全日本人だ。このふたつをたしただけでも、人口の倍近いじゃねーか! キリスト教は約150万人。

仏教教団のうち、やはり圧倒的に大きいのは浄土真宗で、東西の本願寺を合わせて1500万人を超えるようです。

 

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