: updated 2 February 1999
Simple man simple dream -2
欲望について
バブル崩壊の2,3年後だから1992年くらいかな。話題が古いぞお。

何年か前、バブル経済はなやかしり頃のある朝、新聞を広げたら、折込広告がドサッと落ちてきた。つらつら眺めているうちに、通販と近所のスーパーの広告を除くと、残りの広告は三つのカテゴリーに分類されることが分かった。
一つは不動産の広告、一つはエステティック・サロンの広告、一つは学習塾の広告である。
「家を買いたい」、「美しい肌になりたい」、「いい学校に入りたい」という三つの願望に日本人の欲望は集約されていることがそのとき分かった。
「マイホーム」は父の願望であり、「美貌」は母の願望であり、「学歴」は子供の願望である。わずかこれだけなのである。日本人の欲望は、わずかこの三つで言い尽くされていたのである。
「父の建てたマイホームに、美しい妻と、出来のよい子供が集う」というのが「ジャパニーズ・ドリーム」の究極の姿だったのである。
そのとき私は、胸つまる思いがした。「これは、ひどい。ひどすぎる!」と私は叫んだ。
勘違いしないでもらいたいが、子供はあくせく勉強し、大人は美容術やマンションのローンにあくせくする日本人の「夢の貧しさ」に私は驚いたのではない。この「夢」の実現のために、家族のメンバーが応分に負担する努力の、あまりの「不公平さ」に驚いたのである。
だって、よい学校に入るための努力、家を建てるための努力と比較したとき、エステ・サロンに行って、サウナに入って、ダイエットして、無駄毛を抜くという営みに要する努力はあまりにも軽微なものに思えるからである。
どうして「母親の欲望」の実現のための努力は、父親や子供たちの努力と比べたときに、かくも少なくてすむのであろうか?
私は悩んだ。
子供が輝かしい学歴を求め、父親が堂々たるマイホームを求めて苦闘しているのに、母親は、控えめにも、わが身体の美しさというごくささやかなものしか望んでいない。日本の父親たち、子供たちは、身のほど知らずに貪欲であり、一方日本の母親たちは、それに比べてはるかに無欲なのだということであろうか?
そんなことがありえようか?
ありえるはずがない。
熟慮の末、私は次のような驚くべき結論を得た。
父親や子供の欲望は、すべて「母親の欲望」の偽装に他ならない、というのがそれである。
マイホームを本当にほしがっているのは、父親ではなく、母親である。
よい学校に行くことを本当に望んでいるのは当の子供ではなく、母親である。父親や子供は、母親の欲望の実現のための手段にすぎない。

嘘だと思うなら、30年ローンで家を買い、毎月3万円の小遣いでやりくりしているご同輩に尋ねてみるといい。「ぼくはどんな苦労も厭わない。とにかく家がほしいんだ」と泣き叫び、猛反対する妻を押し切って、ローンを組んだという男をあなたは見たことがありますか?
週に4日も5日も学習塾に通い、夜の10時過ぎに疲れきって帰宅する子供を見て、「子供にここまで無理させるなんて、あんまりですわ」と同情の涙をこぼす母親を蹴り倒して、「クラス中が塾に行ってるのに、うちだけ行かせないわけにはいかんだろうが。子供が将来ひどい学校に行くことになって、世間から落ちこぼれたら、お前が責任をとるか!」と激高する父親というものをあなたは見たことがありますか?
私は、ない。
その反対の例なら、無数に知っている。
「本当はマイホームなんか建てるよりも、いい車を買ったり、家族一緒で旅行に行ったり、おいしいものを食べに行ったりすることにお金を使いたかったんだけど・・・」という男を私はいくらも知っている。
「子供はのびのび遊ばせてやるのがいちばんだと思って、塾にやるのには反対したんだけれど、結局、妻に言い負かされて・・・」という男はいくらもいる。

日本の家族は、母親の欲望を軸にして動いている。母親の欲望は圧倒的に実現の機会に恵まれている。(だから地価が高騰し、偏差値が上がる。)一方、父親や子供の欲望が、家族の総意による支持を得て、実現の機会を持つことは、ほとんど、ない。(「出家したい」とか「ヨットでパラオに行きたい」とか「アフリカで井戸掘りしたい」とか「ニューヨークでジョージ・マイケルの追っかけをしたい」とかいう欲望が家族の総意による支持を得るということは、まずありえない。)
社会学者がどう言おうと、日本社会は「男社会」でも「若者社会」でも何でもない。日本は「母親社会」である。母親の欲望が他を圧倒する社会である。母親たちは、ほしいものを夫と子供を使って手に入れる。彼女たちが他人任せでは手に入れられず、やむなく自助の努力を要するのは「美貌」だけなのである。

高度情報化社会について
なんだか気恥ずかしくなるようなタイトルだなあ。これもネタが古い。しかし、言ってることはいつもと同じ。同じはなしをえんえんとしているわけだから、もう一種の「古典芸能」だな。

「高度情報社会」という言葉がよく口にされる。「情報感度」はビジネスマンにとって必須の資質だと言われる。
こういう言葉がどうも信用ならない。そもそも「情報」という言葉そのものも何を意味しているのか、字面だけ見ていると、判然としない。もっともinoformationを最初に「情報」と訳したのは誰あろう森鴎外だそうである。そう聞くとなんだかありがたいような気もするけれど。
それにしても「情報」という言葉をたいそうなもののように口にする風潮がどうにも好きになれない。何が厭なのかというと、この言葉が「情報を持つもの」と「情報を持たないもの」の間の社会的ステイタスの「格差づけ」のためにもっぱら使われていて、しかもそのことをはっきり明かさないでいるからである。

「情報」社会と言うのは要するに「情報」が基幹的な「商品」や「財貨」として流通する社会のことである(と思う。違うかもしれない。)「情報社会」ではおそらく「情報」はひとつの「もの」として、専有されたり、奪われたり、盗まれたり、だぶついたり、バーゲンされたり、棄てられたりするのであろう。
「情報社会」という考え方の基本を成すのは、この「情報は『もの』である」という思い込みであるように思われる。この思い込みの根拠は何なのか。「情報社会」とは実のところ何なのか、今日はこういう問題を少し考察してみたい。
ジャーナリズムの世界ではよく「スクープ」とか「本誌独占」とかいう言葉が使われる。この言葉が端的に示しているように、ジャーナリズム的思考は「情報」を「人に先んじて」専有すべき「もの」として理解している。スパイ小説などでは「情報」はだいたい「フィルム」とか「密書」とかいう「実体」として描かれている。これを敵味方いりみだれて奪い合う。

しかし「情報」は果たして「もの」なのか。「商品・財貨」なのか。隠したり、盗んだり、専有したり、分配したりできるものなのか。
ジャーナリズム的な「情報」は「他社を抜く」とか「抜かれる」とかいう言い方から分かるように、ある種の政治的事件や社会的事件を他に先んじて報道するという「時間的な差別化」に重点がおかれている。
ある事件を他の媒体で知るよりも半日早く知ったことによって、その媒体の読者はどのような利益を得られるのか、私にはよく分からない。
半日後には周知のこととなる出来事を、それに先んじて知ったからといって、そのタイム・ラグを利用して私たちにいったい何が出来るというのか。(もちろん「今夜半に日本が沈没します」とか「ゴジラが上陸します」というような情報であれば、少しでも早めに分かっていたほうがたしかに助かる。)
情報がもたらす「時間的な差別化」で利益を得ることがあるとすれば、それは(『スティング』でポール・ニューマンとロバート・レッドフォードがやったように、あるいはソ連軍の侵攻を察知した関東軍参謀たちがしたように)先に情報を得たものがまだ知らないものを「騙す」「出し抜く」という形でしかありえないだろう。
株式情報であれ(○○銀行が潰れかけている)、政界情報であれ(新幹線が○○を通るらしい)、その情報をひとに先んじて手に入れることによって利益を得ているものは、「もの」や「財貨」を生み出しているのではない。「その情報をまだ知らない」ものから利益をかすめ取っているのである。ほうっておけば他人の利益に属すべきものを早手回しに盗んでいるのである。
情報は「もの」であるというのは嘘である。情報とはいわば「水位差」のようなものとしてしか存在していない。情報の「利益」は、その早さ、量、質において「劣る」ものから「優れた」ものが「何かを奪い取る」という形でしか存在しない。
若者たちの愛読する「ガイドブック」や「マニュアル」の類も本質的には同じものである。そこに満載されている情報なるものは(商品情報、遊び場情報、映画情報、音楽情報などなど)ほんらい知っていようと知っていまいとどうでもよいようなことである。いや、最近の「カルト・ミュージック」や「カルト・ムーヴィー」についての詳細をきわめた情報などは知っている方がむしろ不気味である。(最近一部のタウン誌は欄外に本文の「注」までついている。)
にもかかわらず膨大な量の無意味な情報が送り出されているのは、ガラクタのような情報でさえ、それを「知らない」ものと「知る」ものの間に社会的なステイタスの差別化をもたらすことができるからである。
誰も聞いたことのないミュージシャンの名前を知っていること、誰も見たことのない映画についてコメントできること、そういったトリヴィアルな情報を所有していることは、若者たちの水準では「情報感度の高さ」の指標となる。
「情報感度」は「情報社会」における社会的な差別化の基準である。
繰り返し言うように「情報」というものはそれ自体では何も生み出さない。それは(「象徴交換」における無意味な蕩尽と同じく)社会的な差別を生み出すための人類学的システムである。
かつては権力と財貨が差別化の指標となった。しかし今は圧倒的な権力者も、蕩尽をほしいままにする富豪もいなくなってしまった。
「キング・メーカー」はあっさり捕縛についてしまったし、その「麻布の豪邸」なるものは中世貴族の邸宅に比すべくもない。堤義明は世界一の富豪だそうだが、彼の関心は金をふやすことにのみあり、金を湯水のように蕩尽し、貧しいものたちに投げ与えることによって社会的ステイタスをさらに高めようというお考えは全然ないようである。
権力も財貨ももはや社会的ステイタスを効果的に差別化できなくなってしまった現在、それに代わるものがおそらく「情報」なのである。
情報は権力や富と同じく「もの」ではない。それはただ「誇示され、消費される」ことによってのみ、それを「誇示することも消費することもできないものたち」に対する社会的優位をもたらす。
情報を持つものは、かつて権力や富を専有していたものたちがしたのと同じように、情報を誇示し浪費しなければならない。「僕はこんなことも、こんなことも知っているんだぜ」と言うことによって、彼は自分の「優位性」を誇示する。けれども誇示したことによって、情報は周知のものとなる。情報が共有されれば、「情報の専有」という彼の優位性の根拠そのものは失われる。
社会的ステイタスの根拠づけの動作が、そのステイタスからの転落を準備するという点において、情報の誇示は財貨や権力の象徴的蕩尽と実によく似ている。
おそらくそれが「情報」が新たな社会的差別化の指標に採用された理由なのであろう。
人間はいつだって何かを基準にして社会的な差別化を行ってきた。現代社会はたまたま情報によって階層化・差別化を行おうとしているにすぎない。そのこと自体にはいいも悪いもない。けれども、かつて権力に拝跪した人間が醜悪であったように、金の亡者が醜悪であったように、いま「情報社会」のかけ声に踊らされて新幹線の中でパソコンのキイボードを叩いたりレストランでこれみよがしに携帯電話をかけたりしている姿は同じように醜悪である。

平常心について
これは震災のあとだから、少なくとも1995年以降ということは分かる。よほどそのときの「平常心の人」に仰天したのであろう。

「平常心を保て」ということがよく言われる。しかし、こういう教訓にはときどきとんでもない落とし穴がある。
阪神大震災の朝、瓦礫の中を、スーツを着て鞄を持ち、とことこと「出勤」してゆくおじさんがいた。彼が向かってゆく駅はすでに倒壊し、いかなる交通手段も機能していないときにも、彼は「平常心」を失わなかったのである。
私はこういう「平常心」には感心しない。彼の家の回りには倒壊した家屋の中で救助を求めていた隣人もいたであろうし、安全の確保もままならぬ幼児や老人もいたはずなのに、この「平常心のおじさん」には、そういう事態への対処の緊急であることは思い浮かばなかったのである。
先般の山一証券の廃業に先だって、一夜明ければ紙屑同然となる自社株を「底値で買って儲けよう」とした社員たちがいた。彼らは自分たちの会社が潰れるはずがないという信憑に基づいて行動したわけである。しかし、「明日は昨日の続き」という彼らの信憑には残念ながら十分な根拠がなかった。彼らもまた私に言わせれば「平常心の人」である。
思いもかけない災害や破局的な事態に遭遇したとき、「平常心」の人は、状況にそぐわない、とんちんかんな行動をとって、結果的に自分を傷つけ、回りにも迷惑を及ぼす。
パニック映画における「お約束」の一つに、「いまが危機的状況だ」ということを察知して超法規的な措置を求めるもの(ふつうこれが主人公)と、規則や前例を楯にとって「ルーティン」の中で処理しようとして、事態をますます悪化させてしまうものの対立という構図がある。(『ジョーズ』における署長と市長、『ポセイドン・アドヴェンチャー』における牧師とパーサーの対立などがこれの典型。市長のせいで海水浴客は鮫に喰われ、パーサーのせいで旅客は溺死してしまう。)
これらの映画は有益な教訓を含んでいる。それは「破局的なときに、平常心の人にはついてゆくな」ということである。
人類の歴史を振り返り、王朝や帝国の興亡を見れば、どのような「ルーティン」も必ず破綻する日が来るというのは分かり切ったことである。家が潰れ、会社が潰れ、国が潰れ、貨幣が紙屑になり、金殿玉楼が灰となり、諸行無常の鐘の音だけが変わりなく響くのである。しかし、世の中にはそのような破局が「今日、わが身にも起こるかも知れない」ということをどうしても想像できない人がいる。それが「平常心の人」である。
イギリスにデヴィッド・ヒュームというへそまがりの哲学者がいた。彼は「今日まで毎朝太陽が東から昇ったという事実は、『明日も太陽は東から昇る』ことの十分な根拠にはならない」と述べたことで知られている。
言われて見ればその通り。彗星が衝突して地球が粉みじんに砕けてしまうという可能性はつねにあるし、あと何十億年かのち、太陽が矮星となってその最後の光を放って「消灯」してしまった「翌日」には、間違いなく太陽は東から昇らない。だからヒュームの言うことは正しい。これはいわば「正しい極論」である。
世界の終わりを疑いつつ朝を迎える人も、「太陽が東から昇る」ことに一抹の疑いも抱かずに朝を迎える人も、いずれも太陽の運行に関与できないことに変わりはない。しかし、実際にカタストロフに際会したとき、この両者の状況判断の「速さ」には微妙な違いが生じる。そして、その状況判断のわずかな違いが命の分かれ目ということもありうると私は思っている。
日本の現状はかなり「破局的」である。破局を生き延びるためにも、みなさんにはときどきパニック映画の教訓とヒュームのブラックな知見を思い出してほしいと思う。「平常心の人を信じるな」。


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