同僚の先生が例年より少し早めに年賀状を出した。今年は古句を一つあしらって、シックにまとめた。「元日は冥土の旅の一里塚」(一休宗純)
プリントゴッコで大量に印刷し、投函したあとになって、最初の言葉が「元日」ではなく「門松」であることを思いだした。
いまさら正誤表をおくるわけにもいかない。人々が年賀状を見ながら、彼の無知をあざ笑うさまを想像して苦しみの年の瀬を過ごした。おかげでずいぶんと寿命が縮んでしまった。皮肉を利かせたつもりの年賀状が本人の「冥土の旅」に竿さしたのでは洒落にならない。
大学の教師が三人で、そんな話をしながら呑んでいるうちに、話の赴くところ、言い間違えをして顔から火が出る思いをした経験をそれぞれが告白することになった。
私は「洒落」をずっと「酒落」と書いていた。
レヴィナスの翻訳にまでそう書いてしまって、編集者がゲラに朱をいれて「洒落」と直しているのを見て「こんな変な字があるものか」と憤然とした。それでもちょっと気になって国語辞典を引いて耳まであかくなったことがある。20年間くらいずっと「酒落」と書いていたのである。読んだ人は「教養のない野郎だ」と思っていたであろう。(この話にはさらに落ちがあって、聞いていた一人が不審顔で「え、『しゃれ』の『しゃ』って『酒』じゃないんですか?」)
もう一人の先生は「覆水(ふくすい)盆に返らず」をずっと「履水(りすい)盆に返らず」だと思っていたそうである。
バイトで塾の教師をしていたときに、黒板に書いたら生徒に「それ『覆水』じゃないんですか?」と反問されて、とっさに「そうとも言う」と言い逃れたそうである。(なかなか勘のいいひとである。)
「だいたい『履水(りすい)』って、どういう意味だと思っていたんですか」と尋ねてみたら「『草履(ぞうり)』の『履』の字なので、『足で踏んでしまった水』という意味で、『地面にこぼれた水』のことだと思っていた」そうである。ちゃんとつじつまが合っている。
他人の場合でも言い間違いを聞くのは恥ずかしい。そういう場合は直接本人に訂正してあげたものか、黙っていたほうがいいのか、よく分からない。
ある立派な大学の先生が歓迎会の席で、前任者を評して、「先生とはきすびを接することになりました」と言っているのを聞いたことがある。「入れ違いになる」という意味なら「踵(きびす)を接する」である。「きすび」ではない。「なすび」じゃないんだから。
以前、私が講師をしていた予備校で、現国の教師が「中原中也」の詩を解説して、「中原は東京大学の建築科を卒業しているので、このように理知的な詩を書いたのである」と職員室で生徒にとくとくと解説しているのを聞いたことがある。あまりにひどい間違いなので、思わず「先生、それは立原道造のことではないんですか」と言ったら、にらみつけられ、それからあとその教師にはずっと憎まれた。
それ以来、ひとの言い間違いは直さないことにしている。
「脆弱(ぜいじゃく)」を「きじゃく」と読んだり、「一期一会」(いちごいちえ)を「いっきいっかい」と読んだり、「順風満帆」(じゅんぷうまんぱん)を「じゅんぷうまんぼ」と読んだりする人は大学の先生にも少なくない。(「順風まんぼ」という音感はなんとなく陽気なラテン・ミュージックみたいで好きだけど。)
「情けはひとのためならず」とか「時流に竿さす」とかいう表現はだいたいが逆の意味で使われている。「ただより安いものはない」や「後悔あとに立たず」などはもう間違っているんだか正しいんだかよく分からない。
まあ、言葉なんかどんどん変化するんだから、細かい間違いなんかはそのままほうっておけばいいんじゃないか、という酔客の結論で「恥ずかしい話」が終わろうとしたところで、例の「門松」氏が、いやいややはり無知は恥ずかしいと言い出した。
「間違いはどんどん訂正してもらうべきなのだ。現にこう言うではないか。『知るはいっときの恥、知らぬは一生の恥』と。」