: updated 8 March 1999
Simple man simple dream -11
たまらん人たち

「あれ」は煙草に似ている。

「あれ」も煙草も、空気は汚すし、金はかかるし、火事のもとだし、本人にも周囲の人にも健康に有害である。だから、まわりじゅうのひとがやめろやめろと忠告するが、これがなかなかやめられない。

いま町内に5人だけ「あれ」の常習者がいる。あとは全員「あれ」はやらない。

内心はやってみたいのだけれど、「あれ」を買う金がないという人もいるし、昔、「あれ」の火をおしつけられて大火傷をしたことがあって、それ以来「あれだけは許すまじ」という運動をしているひともいる。ほんとうは「あれ」なんてどうだっていいんだけれど、前から気にくわない野郎だったのでこの機会に「あれをする奴」の弾劾キャンペーンになら一枚噛もうじゃないのというひともいる。

まわりがあんまりうるさいので、5人もとうとうあきらめて、来年になったらもう「あれ」はやめるとしぶしぶ宣言した。

ところが、そのうちの一人が、これまで妙に遠慮したのがたたって、思う存分「あれ」をやっていなくて心残りである、ぜひやめる前に末期の一服を味わいたいと思った。

うちのなかでやると家族もうるさいし、家具も汚れるので、ひとけのない野原に行って残った8本の「あれ」を思い残すことなく灰にしようと思った。野原に深い穴を掘ってやれば、めだつほど煙も出ないし、灰もそのまま埋めてしまえば分かるまいと思ったのである。

ところがめざとい「あれ嫌い」の運動家にみつかって、えらい騒ぎになってしまった。

「野原にだって住んでる人がいるんだ。どんなに深い穴を掘ったところで、煙は煙、灰は灰だ。やめろやめろ」と大騒ぎ。

経験が教えるとおり、「あれ」の常習者はそういうことを言われるとよけいむきなって、いやがらせに吸いたくもない次の一服をやりだす。案の定、ふてくされて二本目に火をつけた。

私は前に煙草についてはこう書いたことがある。

「人間はいつも自分の健康を優先して生きているわけではない。自分の健康を害することをつうじて、かろうじてバランスをとっている精神状態というものも存在するのである。それが分からない人間は自分の内面をのぞき込んだことがないのである。」

私たちは「自分を傷つけたい」という倒錯した欲望を抱えて込んで生きている。自分の身体を傷つけることになると私たちはとたんに勤勉になる。酒を呑み、煙草を吸い、身体に悪い食べ物を腹一杯に詰め込み、倒れるまで働き、倒れるまで遊ぶ。

「適度に酒を呑み」「適度な運動をし」「腹八分目に食べて」というようなことを気楽に言ってくれる人がいるが、これは実に困難な要請であると言わねばならない。「適度」ということが人間の本性に反しているからである。 経験から言えることは、「身体が壊れまで呑む」ことの方が「適度に呑む」よりずっと容易である。「腹十二分目に食べること」の方が「腹八分目に食べる」よりずっと容易である。身体に悪いことをする方が、身体によいことをするよりも、人間の本性にかなっているのである。

どうしてそんな本性が備わってしまったのかか、私には分からない。

分かることは、自分の身体を壊したいという欲求があるのと同じように、私たちは心のどこかに「地球をぶっこわしてしまいたい。人類を滅ぼしてしまいたい」という暗い欲望を抱え込んでいるということである。

私たちはそういう想像をするのが好きだ。「人類が滅びるぎりぎりのところまで行く」というストーリーが大好きである。

嘘だと思う人は「ドラえもん」を見るといい。「ドラえもん」の劇場公開ヴァージョンは全部「地球が滅びそうになるのを、ぎりぎりのところでドラえもんとのび太が救う」話である。子供たちが熱狂して見るのは「楽しい」話ではなく、「怖い」話なのである。

私たちはカタストロフが大好きなのだ。

熱帯雨林がなくなってしまう話も、緑の大地が砂漠化してしまう話も、極地の氷が溶けて世界中が水没してしまう話も、オゾン・ホールから紫外線が照射してきて全人類が癌死する話も、私たちは好きだ。

エコロジストという人たちはそういう想像が特に好きな点で「ドラえもん」的である。彼らに欠けているのは、自分たちが「そういうカタストロフを想像するのが大好きだ」という事実に対する想像力である。 

人間は「人類を滅ばす」テクノロジーが理論上可能になった瞬間、そのテクノロジーを実用化せずにはいられなかった「たまらん」生き物である。

それは、私たちが構想しうるいちばん恐ろしい想像を「具体的に、ものとして、見たい、触れたい」と思わずにはいられないからなのである。

私たちは恐ろしいものから目をそらすことができない。恐ろしいものを空想のままにとどめておくことができない。本当に怖いものは、視線の届く範囲、手の届く範囲にあるほうが気が楽なのである。

「あれ」は「人類滅亡」という悪夢の具体的なかたちである。

「へへへ、このボタンを押したら人類は滅びるんだぜ」と想像しながら、押さないでいるとき、そういうせとぎわになってはじめて私たちの「存在感」に細々とした明かりがともる。

度し難い生き物だと思う。

しかし、自分たちがそういう度し難い生き物であることを認めよう。

少なくともそうやって過去50年間、人類は「へへへ」の誘惑に抗してきた。このボタンを押したら、どういうふうにあれが爆発して、どういうふうに都市が融けて、文明が滅びて、人間が死に絶えるのか、ということについてあたう限りの想像力を駆使してどきどきしてきた。そして、想像することの快感が、ボタンを押す動作を先延ばしにしてきたのである。

この先も「人類を滅亡させかねない」テクノロジーを人類は手放さないだろう。「あれ」廃絶の運動はいかなるものであろうと成功しない。それは「人類は不意に滅びるかもしれない」という思いだけが、私たちに今を生きている実感を与えてくれるからである。それは毎分毎秒少しづつ死にむかっているという「死の確実性」のゆえにではなく、「いつ死ぬか分からない」という「死の偶有性」ゆえに、いまの生命がいとおしいと感じる人間の「業」のゆえであると私は思う。


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