: updated 11 April 1999
Simple man simple dream -8
愛国心について

県教育委員会の職務命令で、卒業式、入学式での「君が代」斉唱と「日の丸」掲揚の完全実施を求められた広島県の高校校長が、反対する教職員組合との板挟みに苦しんで自殺するという痛ましい事件があった。
私はこの校長の死に方に「国」というものに対する現代日本人の典型的な反応を見る。この校長の決着のつけかたを責める人や嘲弄する人がいるかもしれないが、私はそういう気分にはなれない。
おそらくこの校長はこれまで国歌や国旗の問題について、一度も決定的な態度をとることなくやり過ごしてきた人なのだと思う。全員が力一杯「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するような場では、おとなしく立ち上がって小声で唱和し、オリンピックで「日の丸」が上がれば、にこにこ笑い、組合が「国歌、国旗の完全実施は軍国主義の復活の予兆だ」といきまけば、そういう考え方もできるわなとうなずいてしまう、そういう「どっちつかずの人」だったのだと思う。
しかし、この「どっちつかず」こそ、日本人の大半にとっては本音のところではなかったのか。

「国歌国旗という認識が実質的には定着しているのだから、わざわざ法制化しなくても・・・」という歴代内閣のあいまいな態度は、日本国民の「国家」に対するあいまいな態度を正直に映し出していると私は思う。

「国民は自分の国に愛着をもつのが自然だし、自分は現に日本を愛している。けれども『愛国の心をかたちに示せ』と行政に強制されるのは、ぜったいいやだ」と私は思っている。自殺した校長もおそらくそれに近い考え方をした人なのだろう。
私がそう想像するのは、もし彼が県教委と同意見であれば、教職員組合と全面対決しても完全実施を強行したはずだし、もし彼が教職員組合と同じ立場であれば、県教委と全面対決しても完全実施に反対したはずだからである。立場がはっきりしていれば、ことはきわめて簡単だ。しかし、彼は立場をはっきりさせることができなかった。それは県教委の命令にも一分の理があり、教職員組合の主張にも一分の理があると彼が考えていたからである。どちらかを選び、他を棄てるということは、おそらく彼自身の国家観となじまなかったのだ。いわば、彼は自らの死を賭して彼自身の国家観、彼の実感に基づいた国家観を守ったのだ、と私は考えたい。

加藤典洋はこのような現代日本人ひとりひとりのうちに内在するに固有の国家に対するあいまいな、あるいは分裂した感情−愛着と嫌悪、誇りと恥、忠誠と裏切り−を「ねじれ」という言葉で表現している。
『敗戦後論』の中で、加藤は日本人は敗戦の経験からして、国家に対しては、どこかで「ねじれ」た感覚をもつのが当然であって、すり寄るにせよ、つきはなすにせよ、国家とすっきりした関わり方が可能であると考えるほうが無理があると論じている。
国家にすりよる改憲派と国家をつきはなす護憲派をともに批判して、加藤はこう書いている。「この二種の言説は、一つの点で、本質的な共通性をもっている。改憲による自主憲法制定論、護憲による平和原則堅持論は、ともに彼らのめざす理想が、そのまま実現しうるとみなしている点、相似であり、(…)どこか精神の双生児を思わせる、潔白な信念への信従が、共通しているのである。そこにないのは、一言で言えば、やはり『ねじれ』の感覚である。」

この言葉はそのまま広島の県教委と県教組の言説にもにあてはまると私は思う。
県教委は中高生の国家に対する愛情や忠誠が一通の「職務命令」で涵養しうると考えている。(ばかである。)県教組は象徴を通じて国民的なまとまりを作り上げること、それ自体を「悪」だと思っている。(ばかである。)
県教委と県教組は加藤の言葉を借りれば、「精神の双生児」である。
県教委は「国旗国歌が尊ばれる単一文化・単一民族の国民国家」という空しい夢を暖めており、県教組は「上からの国家的統合を退け、多様な文化・多様な民族集団との共存の上に建設される理想国家」という空しい夢を育んでいる。だが、このふたつの夢は、同じ単純な精神から生まれた幻想のふたつの変奏曲に他ならない。国家と国民の関係は「すっきりとした一義的なもの」でありうるし、あらなければならない、というふうに考えるところでこの二つの言説はすでに「双生児」であり、すでにつまずいている。

国家と国民の関係は「ねじれ」ていて当たり前なのである。国歌や国旗に対しては「愛着と反感」を「誇りと恥」を同時に感じてしまうというのが近代国家の国民の自然な実感なのである。それはヴェトナム戦争を経験したアメリカ人、スターリン主義を経験したロシア人、ヴィシー政権を経験したフランス人、ナチズムを経験したドイツ人、文化大革命を経験した中国人・・・どの国民でもみな同じである。国家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた人間的偉業の数々。その両方を同時にみつめようとしたら、私たちの気持は「ねじくれて」しまって当然なのである。それをどちらかに片づけろというのは、言う方が無理である。

先日、合気道の全国学生大会を見学に行った。開会式の次第に「国歌斉唱」とあった。司会者が「それでは国歌斉唱です」というと、会場中の数百人が素直に立ち上がって国旗に向かった。しかし「君が代」を声に出して歌うものは来賓を含めて数名しかいなかった。しん、と静まり返った体育館の中に小さな声とテープの伴奏音だけが響いていた。
私はこの風景には現代日本人の実感がみごとに表現されていると思う。
その場には、みっともないから「みな、大声で歌え」と怒鳴るものも、どうせ歌わないのだから「国歌斉唱なんかやめてしまえ」というものもいなかった。全員が「どっちつかず」の気まずさを静かに共有していた。

国家の象徴を前にしたときのこの「気まずさ」、この「いたたまれなさ」が私たちの国家とのかかわりの偽らざる実感なのである。ならば、そのような実感に言葉を与え、市民権を与え、それを国家への態度の基本として鍛え上げてゆくことがいま私たちに課されている思想的な仕事ではないのか。


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