「アダルト・チルドレン」というへんな言葉を最近目にする。
そのままの意味は「大人である子供」であるから、私は迷うことなくこれは最近多い「幼児的な大人」のことであろうと思っていた。禿頭のおじさんが熱心に『少年ジャンプ』を読み耽っていたり、カラオケで子供のころのTVアニメの主題化を絶唱したりしているさまを嘆いた言葉であろうかと思っていたら、違うようである。
もともと使われだしたのは(もちろんアメリカで)「アルコール依存症の親に育てられた子供」が成人後に持ち越すような固有の精神外傷を抱え込む事態を指す。つまり「大人になった『アルコール依存症の親に育てられた子供』(Adult children of alcoholics)」の最初の二語をとった略語である。
この理論によると、アルコール依存症だけでなく、あらゆる種類の依存症(アディクト)や機能不全家庭の子供は、成人後に特有の神経症的な傾向を示すという。「周囲が期待しているように振る舞おうとする」「ノーと言えない」「しがみつきと愛情を混同する」「何が正常であるかの確信が持てない」「自己処罰の嗜癖がある」「まじめすぎる」「他人と親密な関係を持てない」「他人の承認をつねに求める」「無価値なものに過剰な忠誠を捧げる」などなど。
ふーん、なるほど。でも、ちょっと待ってほしい。
当然のことだが、なんらかの依存症でないような人間はこの世にいない。どこかで機能不全をきたしていないような家庭は存在しない。ということは、私たちは全員が「アダルト・チルドレン」だということである。
私たちは誰も、自分の心身と周囲との関係に悪影響を及ぼすほどに過度に固着するものを持っている。酒や煙草や薬物。読書や音楽や運動や美食やコレクションや金儲け。こういったものはすべて病的な嗜癖である。
どこかで機能不全をきたしていないような家庭もまた存在しない。
「機能不全」の条件としてアメリカの学者が挙げているのは、「家庭に何らかのルールがある。役割分担がある。家族に共有されている秘密がある。他人が入り込むことへの抵抗がある。プライヴァシーが保たれない。家族への忠誠が要求される。家族間の葛藤や対立が否認され、無視される」などである。
私たちの家族は、例外なく、この中のどれかの条件にひっかかるはずである。
もし、このすべての条件をクリアーしている「完全に機能している家族」があったとすれば、それは、「何のルールもなく、父母子供の役割分担もなく、全部がオープンで、他人がどやどや入り込み、そのくせ完全に個人の秘密が保たれ、家族というようないつわりの統一性には誰も一片の忠誠心も持たず、家族の間でのいがみ合いや対立は剥き出しになっている」ような家族であるだろう。
私はそんなところで育ちたくない。
いつものことだが、このような疑似精神医学が作り出す目新しい「症候群」は、私たちが経験的に知っている以上のことを教えてくれるわけではない。
私たちが経験的に知っていることは単純である。すべての家庭はどこかで欠損があり、すべての親は何かに依存しており、そこで育つ子供たちは、多かれ少なかれ、そのせいで精神に歪みをきたしている。
子供たちの精神の歪みに質的な差はない。そこにあるのは「程度の差」だけである。家庭環境によって決定づけられたおのれの「歪み具合」を社会的な許容範囲内にとどめること、それが成人としての私たちのつとめである。
友だちも恋人もできず、ひとの顔色ばかりうかがい、無価値なものに忠誠を誓い、自己処罰癖のある人間なんか私たちの周囲に掃いて捨てるほどいる。私は彼らを「アダルト・チルドレン」などという珍奇な人種ではなく、単なる「役に立たない社会人」だとみなしている。
「役に立たない」という点について私は彼らを差別し、「社会人である」という点について私は彼らと連帯している。この「差別しつつ連帯し、嫌悪しつつ受け容れる」という背理的なみぶりのうちに社会の「健全」は集約されると私は思う。