小泉今日子は頭が小さい。
身長は高くないけれど、頭が小さいせいで、全体のプロポーションがよい。
「小泉今日子」型体型は現代の若い女性の最も好むところである。
しかし、このような身体特徴が好まれ始めたのは明らかに最近のことである。
私の高校のクラブの同輩に橋本君という(のちに判事になった)秀才がいた。彼の悩みは「頭が小さい」ことであった。同じ学年には新井啓右君、塩谷安男君というこれまた伝説的な秀才たちがいたが、彼ら二人はいずれもイースター島のモアイ像のように巨大な頭部の持ち主であった。
わが橋本君は、その二人が巨大な頭部の重みに耐えかねて、ふらつく足どりで校庭を横切るさまを羨ましそうに眺めていた。
「いいなあ、あの人たち、頭が大きくて。ぼくなんか、いくら勉強しても、結局、脳の絶対的な大きさで負けてるから、彼らには追いつけないんだ・・・・」と彼は長嘆したものであった。
世の中には変わった悩みもあるものだと妙に感心したので、いまだに記憶に残っている。
今から見れば、橋本君はたいへんプロポーションがよかったわけである。しかし、30年前には「頭が小さい」ということをプラス価値とするという審美的な基準は存在しなかったのである。
四半世紀で身体比率についての美的基準が変化したこと自体は驚くには当たらない。美的な基準なんかどんどん変わるものである。驚くべきことは、「美しいもの」についての社会的・文化的な基準の変化に伴って、実際に「頭の小さい」子供たちが続々と生まれ出てきているという事実の方である。日本人の体型は美的基準の変化に対応しつつ劇的に変化してきているのである。
毎年、児童・生徒の体型の推移が発表され、そのつど、日本の子供たちは身長が伸び、脚が長くなり、全体に西欧的体型に近づいていると知らされる。そして栄養学者や体育学者が、この体型の変化を食生活や洋風ライフスタイルや運動不足などにからめて説明してくれる。
しかし、本当にそのような外的な条件だけで、体型の変化は説明できるのであろうか?
ハンバーガーを食べて、ソファーにすわって、ファミコンばかりしている子供の脚が退化するというなら、分からないでもない。運動不足で腹が出てきて、TV画面の見すぎで眼が飛び出てくるというなら、分からないでもない。
しかしそんな生活で、なぜ「頭が小さく」なるのであろうか?頭と身体の比率がなぜ変わるのであろう?
誰もそれを説明してくれない。そこで私は以下に暴論的仮説を述べることにする。私はこの変化は外面的・物理的な条件づけによるのではなく、内面的・心理的な条件づけによるものだと考えている。
「頭が小さいのがかっこいい」という社会的感受性が支配的であれば、当然にも、親たちも幼い子供自身も、ことあるごとに「頭をできるだけ小さく見せよう」という努力をする。この努力によって頭のサイズがじりじりと縮まってくる、と私は考えるのである。
木の上の葉を食べるようとしてキリンの首は伸びたとはラマルクの「要・不要説」の教えるところである。キリンの個体が努力して短い首を必死に伸ばしたら、その子供は親が伸ばした分だけ、生まれつき首が長くなるのである。
突然変異と自然淘汰で進化を説明するネオ・ダーウィニスム以降、進化論はラマルク説を一笑に付して顧みなかった。しかし、私は個人的にはラマルクが正しいと思えてならない。
むろん「獲得形質は遺伝しない」と当今の教科書には書いてある。ある生物学者が実験的にラマルク説を反証したのである。彼はネズミの尻尾を切り落として、その子供が生まれつき尻尾のないネズミになるかどうかを140代にわたって実験した。(よくこんなばかな実験を思いつくものである。)そして、いくら親の尻尾を切っても、子供の尻尾はなくならないことを確認して、獲得形質は遺伝しないと断じたのである。
しかし、親の尻尾を切ったところで子供が尻尾なしで生まれてくるはずはないことは素人にも分かる。だって「尻尾がない」という条件はネズミの生存にとって、なんのメリットもないからである。
生存にとってメリットのない獲得形質が遺伝するわけがないではないか。
キリンの長い首と同じく、少女の頭が小さいことは、それぞれの個体の生存にとって有利である。
小泉今日子型少女は、おいしいものを食べたり、毛皮のコートを手にいれたり、快適な住環境を保証される確率が「モアイ」型少女より高いと推測される。審美的にハイレベルな個体は、当然、配偶者を見いだす機会にも恵まれるから、「頭の小さい」遺伝子は高い確率でその複製を得ることになる。
美についての社会的感受性の変化は、あきらかにきわめて高い淘汰圧としてはたらいているはずである。うっかりでかい頭に生まれついたら子孫が残せないのだから、こっちも必死である。DNAの配列くらい「根性」で組み替えてしまっても不思議はない。
金持ちの子供はなぜ金持ちになるのかということも、知性や徳性がなぜ遺伝しないのかということも、全部ラマルク説で説明がつく。
金を稼ぐ能力は個体の生存に有益であるが、知性や人徳はたいていその人の命を縮める方向にしか働かないからである。
多くの人に愛されながら、その愛をすなおに語ることが許されぬものがある。
カレー南蛮そば、などというものもその一つである。
こういう卑俗な食物に対する嗜好は、どうにしかしてイデオロギー的に正当化しなければ、人前で公にすることがむずかしい。「カレー南蛮そば」の場合は、やはり「カレー」という外来食品と「そば」という和食のスリリングな出会い、というあたりからはじめて、ロートレアモンなどを適宜引用しつつ、これを「シュールレアリスティックな食物」というふうに誇大に定義するのが常道であろう。
そういうようなでたらめなエクスキューズを思いつかないと、たとえばデートの時などに、ずるずる「カレー南蛮そば」を食しつつ、なお自分が知的で詩的感受性に富んだ人間であることを女性に印象づけることはむずかしい。
私は幼少のころからこのような「許されない食物」に深い愛情を寄せながら、同時に若い女性に知的で叙情的な人だと思われたいというややこしい性格であった。しかしそのおかげで、いつしか私は自分の「許されざる愛」をでたらめな理屈で正当化する技術において熟練の境に達したのである。以下は私の駆使するそのような詭弁の一つである。今回私が正当化を試みようとしている「許されない食品」とはコーヒー牛乳である。
私はコーヒー牛乳が好きである。深く愛しているといって過言ではない。しかるにコーヒー牛乳は少なくとも成熟した男性の飲料としては社会的認知を受けていない。
アーネスト・ヘミングウェイ、レイモンド・チャンドラー、ロバート・B・パーカー、ギャビン・ライアル・・・彼らが描くハードボイルドな男たちは、ビールやアイリッシュ・ウイスキーやギムレットを休みなく摂取しつづけるが、決してコーヒー牛乳は飲まない。
登場人物がじつにさまざまな飲料を飲むことで知られている村上春樹の作品においても寡聞にしてコーヒー牛乳のあるを知らない。
スクリーンで、ブラウン管で、かつてコーヒー牛乳を飲む場面が印象深く用いられていた例は管見の及ぶ限り、ない。
虚構の世界においては、あれほど頻繁にコーヒーが飲まれ、(それほどではないにしても、ときどきは)牛乳が飲まれているにもかかわらず、それらを合体したすぐれた発明品であるコーヒー牛乳が言及されないのは、なぜなのであろう?
合成甘味料や着色料の添加によって危険な食品とされるコーラや炭酸飲料がCMを通じて、あるいは糾弾記事を通じて、繰り返しマスコミを賑わすのに、コーヒー牛乳については、よきにつけあしきにつけ、誰一人言及しないのはなぜなのであろう。
私はその原因は、この食品のもつある種の「暗い宿命」にあるように思うのである。
「コーヒー牛乳」、「カレー南蛮そば」、「やきそばパン」、「みそカツ」、「コロッケそば」、「たこやきラーメン」、といった一連の「許されない食物」が存在する。(摂取が禁じられているのではない。公然とそれへの嗜好を語ることが禁じられているのである)
容易に知れるとおり、これらの「禁じられた食物」に共通する特性は「ハイブリッド(異種交配)」性である。これらの食品においては、「氏も育ちも違う」複数の食品要素がなんの必然性もなく同居している。
とすれば、その「暗い宿命」も論理的に明かであるだろう。さよう、ハイブリッド食品の致命的な特性は、ハイブリッド動物と同じく、繁殖能力を欠く、ということなのである。
カレーは種属を異にする子孫を生み出す能力がある。カツカレー、カレーパン、カレーどんぶり、ドライカレー、カレー味のポテトチップスなどなど。そばもまた無数のヴァリエーションを誇る。しかるに、「カレー南蛮そば」にはそこから派生してゆくような食物を生み出す力がないのである。「カレー南蛮そば・パン」とか「カレー南蛮そば味・バブルガム」というものを私たちは想像することができない。
コーヒー牛乳もまた、そのような「不毛性」を刻印されている。
コーヒーには無数のヴァリエーションがある。固有の色彩があり、固有の香りがあり、固有の味があり、「コーヒー色の肌のセニョリータ」から「コーヒールンバ」まで、無数の展開様態を持つ。牛乳もまた「乳色の銀河」から「不二家のミルキー」まで限りない詩的イメージの源泉である。
しかるに、両者のハイブリッドであるコーヒー牛乳には、「銭湯で湯上がりに最も好んで飲まれる飲料」という世俗的栄誉以外には、どのような変奏も派生的イメージも存在しないのである。
これがハイブリッド食品の「暗い宿命」なのである。「カレー南蛮そば」や「コーヒー牛乳」は、レオポンやライガーと同じように、繁殖能力を欠いており、自転車やワイパーと同じく、進化の極限にすでに達している。彼らには伝統を伝えるべき子孫がなく、未来がない。
コーヒー牛乳は、世俗性のうちに深い空虚を宿した悲劇的な食品なのである。
こう語り終えると、私は思慮深げな視線を、眼の前におかれた冷たいしずくのついたグラスに静かに向ける。「だからこそ、ぼくはコーヒー牛乳にこだわり続けずにはいられないんです。」
どうですか、こういう話を聞くと、コーヒー牛乳を静かに飲んでいる男が急に知的でセンシティヴに見えてくるでしょう。