「西部邁も絶賛」という帯を見てふらふらと宮崎哲弥『正義の見方』という評論集を買ってしまった。べつに西部邁の評価の客観性を私が高く買っているというわけではない。どちらかといえば信用していない。というか、正直に言うと、そもそも西部というひとの書いたものを読まないのでよく知らない。昔、西部の本を買って、読み終わってそのままゴミ箱に投げ捨てたことがある。読み終わってそのまま本を捨てたことはこれまでに二回しかなくて、そのうちの一回であるから私は西部とは相性が悪いのかもしれない。
ともあれ、「こわいもの見たさ」というか、「まずいもの食いたさ」というかそういうネガティヴな好奇心のなせるままに宮崎哲弥の本を買ってこわごわ読んでみた。読んでみると、文章は達者であるし、若いのに博識であるし、論理も明快であり、悪口の言い方も堂に入っているし、嫌いなもの−上野千鶴子とか−も私といっしょである。しかし、それにもかかわらず面白くない。
なぜ面白くないのか?
つらつら考えてみたが分からない。分からないので、私が「面白い」と思う時評集を取り出して、それと読み比べてみることにした。参考に読み比べたのは高橋源一郎『これで日本は大丈夫』と小田島隆『日本問題外論』。そしたらすぐに分かった。宮崎には「とほほ」がないのである。
「とほほ」とは何か?
それは要するに「従犯感覚」である。
例えば日本の政治システムを批判するとき、私たちはつい弱腰になる。それは批判している当の本人が久しく政治にかかわる言論の自由・集会結社の自由を保証され、選挙権や被選挙権を行使してきた結果、いまの政治システムを作りあげてきた一人だということを骨身にしみて知っているからである。私たちの努力も怠慢も参加も無関心もぜんぶ込みで、その総和としていまの政治体制がある以上、「だいたい日本の政治システムは」みたいなことを外国人のようなスタンスで言うことは許されない。いや、許されているのかも知れないけれど、するのが恥ずかしい。
日本の政治システムや官僚制度がろくでもないものであるということはよく分かっている。分かっているけれど、「ろくでもない」と言うときは「そのろくでもない制度の片棒担いでいるわけだけど・・・」という内心の痛みと恥が私たちの言葉尻を濁らせてしまう。
高橋源一郎が文学や文壇について語るとき、小田島隆がハイテクやコンピュータ業界について語るとき、そこには「身内の恥」を語ることへの「含羞」がある。そのような現状の出現を阻止しえなかったり、時にはそれと知らずに加担してきたおのれを責める気持ちがあり、その一方では「結局、これがおれたちには似合っているんだよ」というやけっぱちな居直りがある。
この「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決まらなさ」が私が「とほほ」感覚と呼ぶものなのである。日本の中年の男性でこの「とほほ」感覚から完全に自由な人間はいないだろう。
夏目漱石以来、この「とほほ的」脆弱性が別の意味では日本のおじさんたちの「自我の鎧」となっていることを私は知らないではない。すぐにへこへこ謝る奴が一番反省していないということを私は知らないではない。(現に私がそうだ。)
しかし、それでも私はあくまで日本のおじさんたちには「とほほ」を求めたい。「とほほ」とは自分は「局外」にあるかのような発言はしないという強い覚悟であり、同時に「局内」というのが「檻の中」でしかないという寒々しい断念である。
宮崎哲弥(とか筑紫哲也とか安藤優子とかに)に欠けているのはこの「とほほ」感覚である。彼らが日本の状況という関数式に算入するのは「自分の無力」というデータである。「無力」なものとして自らを提示するのは、「自分が含まれている社会」の諸制度を審問する上できわめて有利な戦略である。だって無力で無権限だったんだから、現状がどれほど悪くても、そこに責任のあろうはずがない。(これは宮崎が批判しているフェミニズムの自己正当化と同じロジックだ。)これはいけないと私は思う。
経験的に熟知されていることであるが、私たちは自分が「無力」である事実を「自分が弱くて、バカであること」の結果であると考えようとしない。(だっていやじゃないですか。)だから、この「無力」を私よりはるかに強力なものによる「外部からの禁止」の結果だと解釈しようとする。
この「合法的な自己認識を外部から禁止する存在」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
おのれが無力であるという事実から、ただちに「外部に私には理解できないロジックをもって世界を整序している強力な上位者がいる」という結論を導くことはできない。そこには論理的な「架橋」が必要だ。「父」とか「神」とか「鬼」とかいうのは、要するにそのような論理的な架橋機能のことである。
「強力な悪が存在し、それが『私』の自己実現や自己解放を阻害している」という話型は、それゆえ「父」権制社会に固有のものであり、「父」権制社会の再生産プロセスそのものである。このような話型に依存している限り、それがいかなるイデオロギー的な意匠をまとっていようとも、(マルクス主義であろうと、フェミニズムであろうと、自由主義史観であろうと)それは「父権制イデオロギー」であると私は思う。
私はこのような同型的イデオロギーの終わりのない反復にはもううんざりしている。
ここから逃れる道があるのかどうか、私には分からない。とりあえず私は「私は無力でバカであるが、それは私が無垢であるからではなく、また私の外部に『父』がいて私が力をもつことを禁止しているからでもなく、単に私が無力でバカであるからである」という情けない自己認識から出発しようと思っている。
弱さを根拠にしつつ、それを決してパセティックな語法では語らないという決意を私は「とほほ」と擬音化する。
「とほほ主義」はイデオロギーではない。それはイデオロギーが腰砕けになった瞬間の情けない浮遊感のうちに、軽いめまいに似たものを感じてしまう困った精神のあり方のことである。