: updated 9 April 1999
Simple man simple dream -13
新しい家族

夫婦別姓を実践している夫婦がいる。戸籍上は同姓なのだが、表札には両者それぞれの姓を掲げ、電話も別々に所有し、相手にかかってきた電話には出ない。子供たちに父親、母親それぞれに姓をばらばらにつけている夫婦がある。男児は母の姓、女児は父の姓を名乗っている。同姓になるのがいやなので、婚姻届を出さない「事実婚」を実践している夫婦がいる。出生届の書式が気に食わないので、生まれた子供は戸籍がない。就学や予防接種には問題はないのだが「パスポートがとれないのが困る」と親は述べている。

こういうことをするのがいまの「はやり」であるらしい。ジャーナリズムはおずおずと賛意を表明して、自分たちが「開明的」であることを示そうとしているしかし、

しかし、このような「夫婦」、このような「親たち」の思考方法はどこかに倒錯があるように私には思えてならない。

精神の自立を侵犯されたくない、自分の名前で仕事がしたい、自分の領域を家の中で確保したい、家事の負担を不当におしつけられたくない、相手にかかってきた電話にさえ出たくないというような男女がなぜ「結婚」しなくてはならないのか、私にはそれが理解できない。

一人で暮らせばいいではないか。

一人暮らしは生活費が多少高くつく、病気のときや老後を思うと不安だし、話し相手がいなくて寂しいこともある。けれども、誰にも従属せずに生きるという状態は、そのようなマイナスの「対価」を支払ってしか手にいれることができない。

従属はしたくないが、孤独ではいたくない、というのは「腹いっぱいご飯を食べたいが、やせたい」というのと同類の不可能な願望である。

「自由に暮らすこと」と「家族と暮らすこと」は両立しない。自由に暮らしたいものは一人で暮らすべきだし、家族と暮らすことを選んだものは、しばしば自由を断念しなければならない。そんなのは常識である。

子供たちに両親の姓を別々につけている夫婦の行動もまた私には理解し難い。

この親たちは自分たちの姓については、それを「自分たちのこれまでの人生と活動を表す貴重なしるし」として手放すことを拒否した人たちである。その同じ人たちが自分の子供の姓については「ただの符号なんだからどっちでもいいじゃないか」というのがよく分からない。ただの記号にすぎない姓に内容を与えるのは「子供たちのこれからの生き方だから」というのであろうか。だったら、どうして親たちは自分たちの結婚のときには「姓なんかただの符号なんだから、一方の姓にこれからの夫婦の生き方で新しい内容を与えて行こう」というふうには考えなかったのであろう?

「私たちはユニットではない」ということをあくまで主張したいのであれば夫婦別姓もよいだろう。大人のやることだ、責任は自分でとればよい。しかし、同じ理屈で、「子供と親はユニットではない」ということも正しく主張されねばならないだろう。子供は妻が夫の「所有物」でないのと同じように、両親のいずれの「所有物」でもない。その子供にいずれのものであれ親の姓を名乗らせてるのは論理が通らないのではないか。

自分たちの都合に合わせて、ある時は「姓は大切だ」といい、ある時は「姓なんかどっちでもいい」という。あるときは「他人の姓を名乗るのはアイデンティティの喪失だ」といい、あるときは「他人の姓を名乗ることがアイデンティティの始まりだ」という。私にはよく分からない。単に私の頭が悪いだけなのかもしれない。

出生届の書式が気に入らないからと言って自分の子供の出生届を出さず、戸籍のない状態で育てている親たちの思考も私には理解できない。

どこの社会にも、生まれた子供を集団のメンバーとして認知するための儀礼が存在する。聖水で洗礼するところもあるし、一族の長老に命名してもらうところもある。生まれた子供を集団全体で確認し、効果的に保護し、育成するためにはそういう集合的な儀礼がなくてはすまされない。その儀礼を意識的に拒絶するということは、同時に集団の認知と保護をも拒絶することである。

さいわい日本では戸籍のない子供でも義務教育は受けられるし、基本的な児童保護措置は受けられるようになっているらしい。しかしそれは戸籍のない子供を保護するためであって、子供に戸籍を拒絶した親の意志を尊重するためではない。

現行の戸籍制度が最良のものではないということに私は同意する。けれども現行制度の不備を訴えるために、自分の子供に「戸籍なし」というハンディを負わせて、その苦しみを「取引のカード」に使うというやり方には同意できない。自分のイデオロギーを実現するために、他人(子供は「他人」である!)を犠牲に供することをためらわないような人間を「新しい家族像」の範例とすることに、私は反対である。

ここに取りあげたような「わがままな夫婦たち、親たち」の全員に共通しているのは、家族についての彼らの「先進的見解」なるものが、いずれも家族のうちの他のメンバーを犠牲にすることによってはじめて成り立っているという点である。

同じ家の中に暮らしながら姓が異なる兄弟姉妹や、戸籍を持たない子供、彼らは、自分で選んだわけではない条件ゆえに社会生活を営む上でいくたの困難に遭遇している。家族の中で自己決定権をもっていない「最も弱い」メンバーがこうむる苦痛という「対価」を支払ってはじめて、家族の別の「強い」メンバーがどこかで「面目をほどこしている」のである。

もちろんそのようなことを子供に強いている親たちは「姓のちがう兄弟姉妹が特別視される社会の方が間違っている」とか「戸籍のない子供が不便を感じる制度の方が間違っている」と言って反論するだろう。その指摘には一定の論理的整合性があることを私は認めるてもよい。しかし、そこに家族のメンバーに対する敬意と愛情を認めることはできない。

家族についての「先進的な」立場と称するものの過半は、「家長」の対外的な面子のために「弱い身内」が犠牲にされるという点において、伝統的家族主義に酷似している。それゆえ私はこのような立場には一片の「先進性」も認めないのである。


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