: updated 6 February 1999
Simple man simple dream -5
自由主義史観について

日本史の教科書の「従軍慰安婦」問題の記述をめぐって、「自虐的な歴史」を批判する声が高まっている。今日はこの問題を少しまじめに考えてみたい。
97年度採用の中学社会科教科書では歴史分野の教科書全7種のすべてに「従軍慰安婦」についての記述が盛り込まれている。これを「自虐史観」「暗黒史観」「反日史観」の表出であるとしてきびしく批判した人々がいる。その牽引役を果たしているのが東大教育学部教授・藤岡信勝である。興味を引かれて彼の著書『汚辱の近現代史』(徳間書店)を読んでみた。そしていささか暗澹たる気分で本を閉じた。それは彼が告発する社会科教育の現状にではなく、このような批判が「批判」として成立してしまう現代の知的頽廃に対しての悲しみである。
藤岡のこの問題についての所説を要約すると次のようになる。

  1. 戦前の日本では売春は合法的な商売であった。だから戦地で軍の承認と保護下に売春施設があったことは咎めるに足らない。第一、どこの国の軍隊でも同様の施設を備えている。日本人だけが好色淫乱な人種であるかのような記述は客観性を欠く。
  2. 「慰安婦」の強制連行がなされたという確定的な証拠はない。
  3. 中学生に戦地での売春行為というような「人間の暗部」をわざわざ教える意義はない。
  4. すべての教科書がこの記述の採用で足並みを揃えるというのは「談合」に類することであり、教育の現場が「声の大きいマスコミがつくり出す『空気』に支配されている」ことを示している。

日本史の教科書が自国の近代史について、その醜悪な側面だけを強調すれば、その結果、日本のこどもたちはみな日本人であることを恥じるようになると藤岡は主張する。「こんな教科書を子どもに与えていれば、やがて日本は腐食し、挫滅し、溶解し、解体するだろう。自国の近現代史教育のあり方こそは、一国民を国民として形成する最重要の条件である。誇るべき歴史を共有しない限り、国民の自己形成はできない。」
これが藤岡の所説の概要である。
一見すると「従軍慰安婦」問題について、強制連行の事実があったか否かの歴史的確実性が議論の焦点のように見えるが、藤岡の論のイデオロギー的な水準はそのような事実問題にはない。藤岡の議論のうち、注目しなければいけないのは、仮に強制連行の事実があったとしても、仮に軍による慰安施設の直接管理の事実があったとしても、そういう知識は無用に子どもを害するから教科書に書くべきではないと主張している点である。
私はこの考え方に同意することができない。
藤岡の判断にはいくつかの予断が含まれてる。それを順を追って論じる。

第一に、藤岡は国民は自国の歴史について「誇り」を持つべきだということを「自明の真理」として語っている。私はそうは思わない。
藤岡自身が指摘しているとおり、近代国家はどこも多くの恥部や暗部を抱え込んでいる。「手の白い」国はどこにもない。アメリカはマッカーシズムやベトナム戦争やケネディ暗殺などなど気が滅入るような歴史的過去を抱え込んでいる。原住民の虐殺と土地の簒奪から始まったアメリカ建国の歴史そのものが抑圧された記憶でむせかえっている。
ロシアはスターリン主義のトラウマから決して醒めることがないだろう。ドイツにはナチズム、中国には文化大革命、フランスにはヴィシー政権、すべての大国は思い出したくない過去を持っている。
だからといってこうした国々で、中学の教科書が「自国の歴史に誇りを持たせる」ために恥ずべき歴史的事実を教えないですませていたら、私たちは納得がゆくまい。
「仮に強制収容所での大量虐殺という事実があったにせよ、そういう知識は無用に子どもを害するから教科書には書くべきではない」とドイツの教育者が主張していたら(現にそう主張しているものが存在する)藤岡もそれには賛成しないだろう。
自国の歴史の暗部について「恥辱」の気持ちを持つことは、その栄光に対して「誇り」をもつことと同じく大事なことであると私は考える。
無知に基づく「誇り」はただの夜郎自大にすぎず、そのような「誇り」に昂然と膨れ上がっているものは決して藤岡が夢見るような「国際的威信」を得ることができない。

第二点。藤岡はこう書いている。「人間の暗部を早熟的に暴いて見せても特に得るところはない。暗部に目をふさぐべきではないという議論もあるが、そういう知識は、大人になる過程で子どもは自然に身につけていくものである。」
私はそうは思わない。
子どもは一種の「タブラ・ラサ」(無垢状態)であり、「教科書」を通じて子どもたちはその「白い板」に知識を書き込んで行く、というのが藤岡の抱いている「教育」のイメージである。教育者にとってはおそらく理想的なこのイメージはしかし現実とは隔たること遠い幻影にすぎない。
現代の中学生は無菌室の中にいるわけではない。
子どもたちの世界には、熾烈な競争があり、いじめがあり、暴行があり、虐待があり、孤立があり、権力闘争がある。このタイトでストレスフルな人間関係の中で、子どもたちは必死でおのれを守りながら生きている。「人間の暗部」は「暴いて見せる」ものどころか、彼らの「日常」である。彼らがこの時代を無傷で通り抜けるためには、藤岡の考えとは逆に、「人間の暗部」に対する洞察と、人間の愚劣と攻撃性についてのただしい理解と想像力が不可欠であると私は考えている。
たとえば「売春」は、現代の女子中高生にとって、それを容認するかどうか、容認できないとすればその理由はなぜか、ただちにおのれの見解を明らかにすることが求められている緊急かつ切実な論件である。
藤岡が言うように「世界最古の商売」で、どこの国でもやっていることだから、中学生が議論するには及ばないというのは、これまで学校教育を支配してきた(彼ら自身のかなりが買春経験をもつ教師たちによって支持されてきた)微温的見解と同じものである。
そのような「臭いものには蓋」的対応の無効性をこそ今日の「援助交際」する少女たちが「暴いて見せて」いるのではないのか?
もし中学生たちに教えるべき「この困難な時代を生き延びるための知識」があるとすれば、それは(藤岡の言葉を借りれば)「声の大きい」やつの言うことを信じるなということに尽くされるだろう。風説を信じるな、メディアを信じるな、教科書を信じるな、教師を信じるな、親を信じるな、いまこう語っている私の言葉を信じるな。
このダブル・バインド状況に耐える知性を自力で研ぎ上げてゆくほかに、子どもたちが成熟し自立するため手だてはないと私は考えている。
教育学者である藤岡の教育観で、私が同意できないもうひとつのことは、藤岡が教科書の提供する情報の影響力を過大評価していることである。
これは藤岡自身の自己形成史にかかわっているような気がする。
本人の記すところを信じるならば、藤岡は少年時代に猛然たる知識欲に駆られて「学校に置いてあるささやかな図書を読んでしまうと、百科事典を『あ』の項目から書き写すという愚かなことを始めた」そうである。『007・ドクター・ノー』に出てくる独学者ウルスラ・アンドレスを除いて、百科事典をシーケンシャルに読んで知識を身につけようとした人間は私の知る限り藤岡がはじめてである。これは藤岡の思考の「徴候」を見る上で重要なエピソードであるように思われる。
北海道大学入学後、藤岡は民青系の活動家になるのだが、彼がこの「革命党派」での経験として報告しているのは『ソ連邦共産党史』の読書会だけである。読書会で左翼の勉強をした藤岡は、そののちフルシチョフの「テクスト」やソルジェニーツィンやメドベージェフの「文献」を通じて「スターリン主義を克服」する。さらにその後、藤岡は「私の認識の枠組みを変える最初の、しかもおそらく最大の要因」である「司馬遼太郎の作品との出会い」を契機にして「自由主義史観」を確立する。
もし書かれている通りであるとしたら、藤岡にとって決定的な経験はつねに書物から由来したことになる。書物を軸に自己形成を遂げた人間が、教科書が子どもたちの精神形成につよい影響を与えると思うのは当然であるだろう。しかし、その判断には藤岡自身のかなり特殊な自己史のバイアスがかかってはいないか。
私の知る限り、藤岡のような熱意をもって教科書を読み、そこから知的滋養を汲み出している中学生は残念ながらきわめて少数である。彼らの多数は教師や親の知見からではなく、彼ら固有の狭隘な人間関係とその閉じられた空間を支配している(漫画やTVや風説によって育まれた)稚拙なイデオロギーの圧倒的なな大気圧下で世界観や人間観を形成している。試験に必要な年号や固有名を覚える以外の切実な知的動機に駆られて-世界のなりたちを知ろうとして-歴史の教科書を開く中学生が全国に何人いるだろうか。
それだけの知的渇望があれば、彼らは必ずや自分で書物を選び出すだろう。そして彼らの父親たちは子どもが図書館やわが家の書棚に並んでいる司馬遼太郎を読むことをけっして禁じないはずである。
「今、歴史教科書を改めない限り、日本国家の精神的解体の危機は目前である」という藤岡の現状認識を私が共有できないのは、歴史教科書を改訂すれば「日本国家の精神的解体の危機」が回避できるという藤岡の見通しが現在の中学生の知的形成プロセスに対する無知に基づいているように思われるからである。

藤岡の議論の中で、私が納得がいかないことがもう一つある。それは「自虐史観」を声高に批判する藤岡自身、自らのロジックの「自虐性」についてあまりに無自覚なことである。
藤岡によると、「自虐史観」に基づいた歴史を学んだ中学生たちは「日本は『きたない』『ずるがしこい』『心が狭い』『卑怯な』『恐ろしい』『とてつもなく悪い』国、世界で『一番悪い』国だという感想を書いた」そうである。
このような自国についてのネガティヴな認識の蔓延を憂う藤岡自身は、たとえばアメリカの政治プロセスとわが国のそれを比較してこう書いている。
「それにひきかえ、日本の政治はなんと閉鎖的で陰うつなことであろう。日本の政治にはまともな論争が欠けており、議論を避けて談合で事をすませる体質がしみついている。その結果、国民はどういう政策が国民の幸福につながるのか判断する材料を与えられていない。」
だから「日本の国民は世界の出来事に概ね無関心であり、日本国家としての対応が必要な危機が訪れたとき、どのような原理に立ちどのように処すべきか、そのよりどころになる知識・能力に欠けている。」
手厳しい批判である。さらに筆をすすめて、藤岡は「経済至上主義と『平和ボケ』によって、理念を喪失した自民党の一党支配」下で、湾岸戦争への「人的貢献」をためらった海部政権によって、また従軍慰安婦問題において軍の関与を認めた宮沢政権によって「日本の国際的威信は決定的に傷つけられ」ときっぱり断言している。
このように、その著書全体を通じて一貫して「日本は『きたない』『ずるがしこい』(以下略)」という「感想を書いている」藤岡本人はなぜ自身の戦後史観が「自虐的」だとは思わないのだろう。
私にはそれが分からない。
私は藤岡の著書を読んでいるうちに気が滅入ってきた。ほんとうに情けない国に生まれたものだと(藤岡とは少し違う意味でだが)しみじみ身に沁みて落胆した。私のような読者がふえると「やがて日本は腐食し、挫滅し、溶解し、解体する」ことにはならないのだろうか?
私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている奴のことを、私たちは「馬鹿」と呼んでいいことになっている。
藤岡が彼自身の知的形成の場であり、彼に東大教授というプレスティージの高い地位を付与した日本の戦後体制総体をあしざまに罵るのは「自己批判能力」があることを示すためであって、理にかなった行為である。だから藤岡には自虐的になる権利があると私は思う。同時に、他人が同じ理由から自虐的になることに対して藤岡には文句を言う権利がないとも思う。
藤岡のやっていることと、藤岡によって「自虐史観」と批判されている歴史家のやっていることは「『何よりだめな日本』とはいつからいつまでの日本のことなのか」という設問に対する時間的なレンジの取り方の違いだけであるようにしか私には思えない。

私自身は藤岡や「マルクス主義者」に共通するこの考想を「危機史観」「陰謀史観」と呼んでいる。
「いまは亡国の危機だ」と警鐘を乱打し、ついで「危機の元凶は誰か?」という「犯人探し」によって社会的な「悪」を局在化し、その摘抉を解決策として処方するという手続きを「科学」であると信じている点で、藤岡は『ヘーゲル法哲学批判』におけるマルクスとよく似ている。
藤岡は「犯人」像をこんなふうに描いている。
「共産主義の怪物がソ連のような形をなしている間は人々にとって目に見える敵になりますが、打倒されると目標は見えなくなる一方、その体液は世界全体に飛び散っていたるところに拡散し蠢動を続けるのです。」(『国民の油断』PHP)
「伝染病菌」や「寄生虫」のメタファーで「社会の敵」を記述することを偏愛した歴史上の人物として私たちがすぐ思いつくのはヨセフ・スターリンとアドルフ・ヒトラーと毛沢東である。
藤岡はイデオロギー性とは「メタファー」の形をとって出現するものだということを知っているだろうか。「百科事典」には書いてないから、たぶん知らないだろう。


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