: updated 9 April 1999
Simple man simple dream -16

京大の教授が弟子筋の女性研究者をレイプした疑いで講壇を逐われ、そのあと逃げ込んだ禅寺からも追い出され、しかたなく週刊誌や新聞で身の潔白を訴えている。(という事件がありましたね。5年くらい前ですけど)

こういう話は本質的に「薮の中」なので、被疑者である教授の申し立てと、被害者である女性の申し立てのいずれが真実であるかを裁定することは誰にもできない。けれども全く潔白な人の身にはこういう事件はふつう起こらないということを私たちは経験的に知っている。

芥川の『薮の中』では盗賊と武士(の亡霊)とその妻の三人がレイプ殺人事件についてそれぞれに違う真実を語るが、盗賊はやっぱり処刑されてしまう。もしかしたら多襄丸の言うとおり、彼は殺人の主犯ではなく、共犯者に過ぎないのかもしれない。しかし、ふだん悪いことばかりしているので、こういうときに誰も信じてくれないのである。

「狼少年」という寓話の教訓もそこにある。

ふだんから嘘ばかりついていると、たまに本当のことを言っても誰も信じてくれない。

ことは「嘘」に限らない。

ふだんから議論のたびに「自分は正しい」と言い立て、決して自分の非を認めることのない人がいる。そういう人は、ごり押しすることによって、その場の議論は強引に制圧することができるけれど、勝利の代償に「あの人は自分の非を認めない」という風評を得ることになる。

さて、そのような人は、不幸にして事実無根の告発を受けたとき、いくら声の限りに身の潔白を訴えても、あまり信じてもらえない。いつも「私は正しい」と言っているせいで、「本当に正しい」のか、いつものごり押しなのか、周囲の人たちには識別できないからである。

自分の非を認めていさぎよく謝ることのできる人は、ときどき面子を潰す代償として、自己評価においてかなり客観的な人であるという評価を得ることが出来る。そういう人の申し立ては信頼性が高い。

『薮の中』的状況では、ひごろの声の大きさよりも、ひごろの自己評価の信頼性がものをいう。

私たちは生きている限りは必ずいくどか『薮の中』的シチュエーションに遭遇するはずである。自分の犯していない過ちについて告発を受け、いかなる物証によっても反論することができない、という悲劇的状況に落ち込むことがあるはずである。

そこから抜け出すには、そのような状況に陥る前に、あらかじめ「あの人は自分の犯した過ちについては正直に非を認める人である」という世評を獲得しておくほかに術がない。

渦中の京大教授は、その書き記すところによると、自分は100%正しく、自分に対する批判はそのすべてが嘘、狂気、嫉妬、憎悪などに発するものであると主張している。こういう状況で自分が100%正しく、批判者は100%邪悪である、という反論を試みるのは戦術的にはたいへん拙劣なことである。

それはこの人物がこれまでこのような「決して自分の非を認めない」というかたちで議論に勝ち続けてきたことをはしなくもあらわにしてしまうからである。

『薮の中』的状況で被疑者が試みるべきなのは「真実を語る」ことではない。(「真実」は『薮の中』にあって誰にも見ることができない。)そうではなくて「この人は自己評価が客観的である」という評価を獲得することなのである。

「自分は100%正しい」という主張は自己評価の客観性を致命的に損なってしまう。

こういう場合には「たしかに私にもとがめられるべき点はあるだろう。AとBの批判は掬すべきである。しかしCの批判は事実無根である」というふうに反論するのが定石である。

このような初歩的な説得術を知らないということは、彼がこれまで他人の批判に耳を傾ける習慣をもっていなかったことを窺わせる。つねに100%正しい人は他人の批判に耳を貸さない。おそらく彼はそうやってこれまでさまざまな論戦に勝利してきたのであろう。その勝利のうちにはあきらかに彼に非があり、彼に論破された側に理があったケースもあったはずである。

彼はいま、その「つけ」を払っているのである。


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