スーザン・ソンタグと大江健三郎の往復書簡がまだ続いている。ソンタグのロジックの危険性についてはすでに別の処に書いたので繰り返さないが、改めてこの人の発想法が根本的に「アメリカ的」だということがよく分かった。
自分はNATO軍によるセルビア爆撃を支持する。それしかミロシェビッチによる「ジェノサイド」を阻止する方法はなかったからだ、とソンタグは書いている。
「かつてユーゴスラビアだった地を、スロボダン・ミロシェビッチが破壊し続けるのを食い止めるには、軍事介入しかないと考えたからです。ミロシェビッチが1991年に戦争を始めたそのとき、もし軍事介入が行われていたら、多くの、実に数多くの生命が失われずにすんだことでしょう。あの地域全体の物理的、経済的、文化的な破壊も阻止できたでしょう。」
これはアメリカ政府の公式ステートメントとほとんど同文である。
彼女が気にしているのは、おもに「助けに行くことで生じる破壊」と「放置しておくことによって生じる破壊」の数量的な比較である。「放置しておく」方が破壊が大きそうだ、だから助けに行こう。ソンタグが言っているのは、要するにそういうことである。
「かりにNATOが戦争を否定していたとしたら、それはコソボの人々にとて、どういう事態を意味していたでしょう−助けは来ない、ということです。」
ここでソンタグが前提にしているのは、彼女がつねに「騎兵隊」の側にいるということである。
「悪いインディアン」がいる。苦しめられている民衆がいる。略奪されている農場、破壊されている街がある。座視してよいのか?騎兵隊が出動すべきではないのか?たしかに流血はあるだろう。だが、平和のためには必要な犠牲ではないのか?
ソンタグは自分が「助ける」側にいるという前提を一瞬も疑わない。
彼女がたぶんいちども想像したことがないのは、もし南北戦争のときに、たとえば南軍に大義があると判断し、エイブラハム・リンカーンがアメリカを「物理的、経済的、文化的に破壊し続けるのを阻止する」ために、英仏独の連合軍が突然ニューイングランド上陸作戦を敢行し、ワシントンに砲弾の雨を降らせてきたら、アメリカ国民はどんな気分になるだろうか、というような種類のSF的仮定である。
「ちょっと、待ってくれ。そっちの理屈で、人の国の内紛に干渉するなよ。」と19世紀のアメリカ国民は思うのではないだろうか。「助けになんか、勝手に来るな。」
もちろん、そんなことは起こらなかったから、アメリカ国民はそういう想定に慣れていない。つまり「外」から誰かが「助けにくる」ということがどういう「感じ」か、ということに。
あまり知られていないことだが、アメリカはこと戦争に関しては「処女」なのである。よその国に「踏み込まれた」経験がないのである。
独立戦争のときはまだアメリカがなかった。南北戦争は「内戦」である。19世紀にはメキシコ、スペインと戦争して植民地を拡大したが、いずれも戦闘は国境外で行われた。
局地戦で、アメリカ正規軍が他国の軍隊に自国国境内で戦闘に負けた経験は二回しかない。一度はジェロニモ率いるインディアンに、一度は真珠湾で日本軍に。ただし、インディアンは帰順すべき「準」アメリカ国民として観念されていたし、真珠湾は暴力的に併合して「準」州になったばかりの遠いハワイ島での出来事であった。
自国の領土を他国の軍隊が闊歩するのを見るという経験をしたことがないこの国の人々は、軍事介入をつねにアメリカを「主語」にして考える。アメリカを「目的語」にした軍事介入状況というものは彼らの想像の埒外にある。
そして、自分がつねに状況の「主語」であり、「主体」である、あらねばならぬという前提をソンタグもまた自明のものとして採用している。
彼女の文章を読んでいて私が感じる重苦しさは、「おのれが主体であること」を一瞬も疑わないその圧倒的で索漠とした自信から発するのだと思う。
イタリアでの反戦デモで掲げられたスローガン「戦争をやめよ。ジェノサイドをやめよ」を見て、ソンタグはその幼い理想主義を批判する。
「抗議していた善意の人々は、これら二つのアピールは同じ主張になると考えていたに相違ありません。しかし、そうはならないのです。私はこう考えざるを得ませんでした。だれが戦争を起こしているのか、だれがジェノサイドに手を染めているのか。戦争停止によって、セルビア側によるジェノサイドがまんまと続けられるだけの結果になってしまったら・・・」
ソンタグはわざわざ「だれが」に傍点をふって強調している。
戦争やジェノサイドは社会システムの不調であり、多様なファクターの累積効果として発生する。「だれか」が意図的に開始できるようなものではない。私はそういうふうに考えるが、ソンタグはそういうふうには考えない。
ソンタグはミロシェビッチが「戦争を起こしている」と思っている。
だが、もちろんミロシェビッチは自分はすでに「別の誰かが」始めた戦争に対して防衛的、報復的に対応しているにすぎないと考えている。
ヒトラーだって、ナポレオンだって、聞かれればみんな「相手が先に攻撃してきたのだ」と答えるだろう。心からそう信じて。
戦争とかジェノサイドというのはそういうものだ。
反ユダヤ主義の文献を少しでも読んだことのあるものなら、そこに横溢している非ユダヤ人のユダヤ人に対する恐怖と被害者意識の底なしの深さに驚くはずだ。
ジェノサイドというのは、「めざわりだから異物を排除する」というような「積極的・主体的な選択」ではない。その「異物」によって自分たちの社会がいま占拠され、自分たちの文化が破壊されようとしているという切迫した恐怖と焦燥に駆られたとき、ぎりぎりの「自己防衛」としてジェノサイドは発現するのである。すべての民族虐殺者たちは涙ながらに「自分たちこそ被害者なんです」と訴えるに違いない。
戦争であれ、ジェノサイドであれ、「だれが」それを起こしたのだ、というような問いは無効である。「私がそれを起こした」と確信している人間などそこには一人もいないからだ。全員が「自分こそ最初の、最大の被害者である」と思いこむ人々のあいだではじめて破滅的な暴力は発生する。暴力の培地は悪意ではない。おのれは無垢であるという信憑である。
「だれが」が戦争を始めた。「だれか」が戦争を終わらるべきだ。問題は「だれか」を特定することだ、というソンタグのロジックには「私が戦争を始めたのではないか?」「私がごく当たり前のようにここにいるということがすでに誰かの主体性を侵害しているのではないか?」という問いが抜け落ちている。
ソンタグ的世界では、一方に「戦争とジェノサイドを起こしている」邪悪な「主体」がおり、他方に戦争とジェノサイドを「阻止する」ために駆けつける無垢で知的な「騎兵隊的」主体がいる。
すべては「主体」の意思と決断の次元で語られる。
とても、分かりやすい。
けれども、このあまりに分かりやすい図式にはひとつだけ欠点がある。それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味しないということである。
スーザン、君のことを言っているのだよ。