: updated 12 April 1999
Simple man simple dream -21
廣松渉

廣松渉が死んだ。(いつの話だろ)

1970年代に「新左翼運動」に大きな思想的影響を与えた哲学者だと新聞の死亡記事は報じていた。「思想的影響」についてはつまびらかにしないが、廣松が70年代の「ウッド・ビイ・インテリゲンチャ」の少年層に深刻な「文体的影響」を及ぼしたことについては異論の余地がないだろう。

70年代のはじめ頃、青臭い観念の言葉を紡ぐ少年たちにとって、文体上の師匠は誰よりもまず吉本隆明であった。

「わたし(たち)」とか「じじつ」とか「さしあたり」とかいうどうでもいいような吉本フレージングを少年たちは濫用した。「新左翼」ムーヴメントの総破産の流れの中をよろけながら歩く政治少年の索漠たる心情と吉本の言葉遣いはおそらくなじみがよかったのだろう。

そして吉本文体固有の「べたつき」に人々がいささかうんざりし始めたころ、廣松文体が出現した。はじめて『世界の共同主観的存在構造』を読んだときの衝撃を今でも私は忘れることができない。

吉本隆明の文体にあった何となく暑苦しい生活感が、廣松の文体にはみじんもない。吉本は怒り、罵り、せせら笑い、説教し、ときどきは「涙のしみこんだ」パンを食べたりする人間くさい思想家だったが、廣松は怒りもしないし、罵りもしないし、泣きもしないし、笑いもしない。廣松は読者にただひたすら思考の「エクササイズ」を要求するハードコアな思想家であった。

おそらく廣松は「脳は筋肉で出来ている」と信じていたのであろう。彼が読者に求めたのは「脳の筋肉」を強化するためのトレーニングであった。

「認識の過程は、本源的に、共同主観的な物象化の過程であり、しかもこの共同主観性が歴史的社会的な協働において存立する以上、認識は共同主観的な対象的活動、歴史的プラクシスとして存在する」というような文章を私たちは読まねばならなかった。そしてその文章の意味するところが「要するに、『赤信号みんなで渡れば青信号』というようなことだわな」と瞬時に察知するようになるまでには多年の修練を要したのであった。

吉本の文体がブルースだとすれば、廣松の文体はヘビメタである。電気増幅の大音量に隠されたメロディ・ラインが、それだけ聴いてみるとずいぶん単純であるのもヘビメタに似ている。

しかし音楽の流行と同じく、おそらく70年代はヘビメタ的な思想の文体を求めていたのだ。自然科学の術語や哲学的ジャルゴンや画数の多い漢語で武装したあとでなければ「こころの中」は語れやしない、と人々は思い始めていた。「たたかい」とか「おとしまえ」とか「いきざま」とかいう言葉をだらだら遣うことが、きっと恥ずかしくなったのだろう。

正直に告白しよう。私は廣松渉の文体に衝撃を受け、そしてある意味で魅了された。詩的感受性やら「傷つきやすさ」やら社会的不適応性やらを安酒の臭気とともに吐き散らすことに飽き飽きしていた私は、廣松が実践しようとしている禁欲的な知性のトレーニングにある種の爽快感を覚えたのである。

ともあれ、70年代半ばに政治少年たちの文体から吉本隆明の影響はほぼ一掃された。人々は競って「いまや言語存在の究明を通路にして新たな世界観的な視座が模索されつつあると断じても恐らくや大過ないであろう」というような文章を書くようになった。

「廣松文体」の利点は情緒的べたつきがないことだが、欠点はなんと言っても「頭の悪いやつが書くとぜんぜん意味が分からない」ということにある。そして恐ろしいことに廣松以外の人間の書く「廣松文体」は案の定ぜんぜん意味が分からないのであった。

柄谷行人にかすかに名残をとどめつつ、「災厄の廣松文体」は80年代に入る頃に静かに消えて行った。そして、あの「群れ立ち上がる言葉たち」の蓮實重彦文体に覇権は移るのである。

それでも、廣松渉が文体に賭けた情熱に対しては、私はいまも深い敬意を禁じ得ないでいる。次に掲げるのは廣松渉の『マルクス主義の理路』の第一章の目次である。

とにかく黙って読んでほしい。

1・近代的合理主義を支える世界了解の構図

2・ヘーゲルの弁証法における三位の一体性

3・先験的観念論の地平とヘーゲルの弁証法

4・マルクス主義的弁証法の理路とその地平

全部18字なのである。


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