知り合いの若い女性から手紙が来た。精神病院でデイケアのヴォランティア活動をしているそうである。手紙によると「一応退院して社会に適応しつつ通院しているひとたち」の話し相手をしているらしい。その人たちの彼女への質問がやたら哲学的であるという。
彼女は学生時代にちょっとだけ哲学をかじってフランス現代思想を卒論に選んだ人なので、そこそこのことは分かるけれど、むずかしい質問には往生するようである。
「哲学はポストモダン以降どこへ行ったのでしょうか。今一番新しい哲学とは?本を紹介してほしいと言われるのですが、何がよいでしょう」というご下問である。質問の答えにはならないが、彼女への返信のつもりでこの問いをめぐって少し考えてみたい。
心に病を持っている人々が哲学や宗教につよい関心をよせるというのは私にもよく理解できる。心の病というのは、おおざっぱに言えば「自分はなぜここにいるのか」「自分は誰なのか」といった問いにうまく答えることのできない精神のありようのことである。
フロイトに言わせれば、私たちは全員程度の差はあれ心を病んでいる。私たちは「自分が何ものであるのか」、「自分は何のためにいまここにいるのか」について誰一人確定的な答えを持っていないからである。私たちは自分が生まれる前のことも、死んだあとのことも、そもそも私たちがいま生きている地球や太陽系や銀河系が何のために、どんなふうに存在しているのか、まるで知らない。
「ビッグバンがまずあって、以来、宇宙は膨張し続けているのだよ」というようなこざかしい説明ですませるのは止めよう。
「じゃあビッグバンの『前』には何があったの?膨張している宇宙の一番外側のその『外』には何があるの?」という子供の素朴な質問には誰も答えられないからだ。
心を病むというのは、この幼児的な問いに取りつかれてしまうということである。誰も答えられない問いを真っ正直に抱え込んでしまうことである。
私自身は小学校の一年生のころ、この種の狂気にとりつかれたことがある。そのときは、心臓の「どき・どき」という鼓動と鼓動のあいだの「休止」が怖くてしかたがなかった。「どき」としているときは、たしかに私は生きている。けれども、「どき」が終わって次の「どき」が来るまでの間、私は「もしかしたら、つぎの『どき』は永遠に来ないのではないか」と思い、この短い休止を恐怖のうちに過ごした。一日中、「どき」と「どき」の間でおろおろしているのだから、立派な神経症患者である。大人はどうしていつ死ぬか分からないのに怖くないのだろうと子供心にじつに不思議であった。
長じて分かったのは、「大人」はこういう答えの出ない問いをうまく避けるためのわざを心得ているということだった。その「技法」が哲学である。
哲学とは人間の存在の根拠を問う「しかた」のことであり、答えられない問い(宇宙の起源とは何か、宇宙の涯には何があるか、時間はいつ始まり、いつ終わるのか、死後私たちはどこへゆくのか、などなど)について考える「しかた」のことである。哲学は何か「答え」を提供するものではなく、「答えがうまく出ない問い」を取り扱うための技法である。
禅の公案はその技法の代表的なものである。「父母未生以前の我」(両親が生まれる前の私とは誰であるか?)というような公案はまさに「答えのない問い」である。この種の問いはそもそも答えを出すことを要求していない。公案のねらいは「答えのない問い」にはどう対処すべきかという知のエクササイズにあり、おもに問いを所期の枠組みとは別の枠組みへと「ずらす」技法の修得にある。
デカルトの「神の存在証明」も問い方は違うが、「効果」は同じである。デカルトはこう問う。「なぜ有限な存在である人間が『無限』という概念を持ちうるのだろうか?」(これは「なぜ『宇宙の涯』なんてみたこともない子供が、『宇宙の涯』はどうなっているのか思い悩むことができるのか?」という問いと同じである。)
これらの哲学的思考によって大人たちは狂気をたくみに回避する。どうして回避できるかというと、禅もデカルトも、「思考不能のもの」について思考することは「たいへんに知的なわざであり、崇高な営みである」という(じつは全然根拠のない)前提を素知らぬ顔で採用してしまっているからである。
哲学が私たちに教えるのは、答えの出ない問いをあれこれ思い悩むのは知的に誠実なあかしであり、とても「よいことなのだ」という「嘘」である。
みなさんご案内の通り、人間というのは「やるな」と言われたことはむきになってやるくせに、「とてもよいことだから、どんどんやりなさい」と言われたると、とたんにやる気をなくしてしまう困った生きものである。
トム・ソーヤがおばさんに頼まれた塀のペンキ塗りをさぼるために一計を案じた話を覚えておいでだろうか。トムの友人の悪ガキがやってくる。トムはペンキ塗りがいやでしょうがないのだが、にこにこしながらうれしそうに仕事をして見せる。リンゴをほおばりながら、ぼんやりペンキ塗りをみていた友人は、トムがあまり楽しそうなので、なんとなくペンキ塗りがしたくなってくる。そこで「ね、ちょっとだけやらせてよ」とトムに頼む。ここが駆け引きのかんどころ。トムはきっぱり拒絶する。「やだよ。こんな楽しいこと、ひとにはやらせられないね。だめだめ。」 だめと言われると、もうやりたくて仕方ない。必死に頼み込んで、ついに「塀に全部ペンキを塗らせてくれたら、このリンゴをあげる」というところまで条件を吊り上げる。トムはしぶしぶ(内心ほくほく)刷毛を渡すのである。
哲学が「心の病んだ」私たちに仕掛ける「嘘」もこれと同一の構造を持っている。
世間のふつうの親たちは子供が「ねえねえ、宇宙の涯には何があるの?」とか「死んだあとどうなるの?」とかしつこく訊ねると、「うるさいね。そんなこと考えなくていいから、宿題やりなさい」というふうな対応をする。これではまるで逆効果である。
こういう困った問いかけには「まあ何というすばらしく哲学的な問いなのでしょう。そういうことを考えるのはすごく知的なことなのよ。さ、宿題なんかいいから、ここにある『方法叙説』と『存在と時間』をしっかり読んで、立派な人間になってね」というふうに対応するのが正しいのである。そういうことを言われたとたんに子供はやる気をなくして、コギトとも存在論的不安と無縁の凡俗のひととなるのである。
精神病院を退院して回復途上にある人々が哲学に惹かれるのはごく自然なことであると私は思う。彼らはそれが「凡庸」への王道であることを直観的に知っているのである。