ある予備校の資料によると、はやければ2008年に、「大学入学志望者数」と「大学定員」が同じになる。
これはどういうことかと言うと、その年には「どこそこの大学でなきゃ、やだ」というわがままさえ言わなければ、受験生全員がめでたく大学生になれる、という「大学全入時代」が到来するということである。
大学全入。それがどういう事態を意味するのか、ちょっと考えてみたい。
私が中学生の頃、東京都内のふつうの公立中学校では50人のクラスのうち10人近くが中卒で就職した。私が見ていた「デンスケ劇場」というローカルなコメディでは大宮デンスケという浅草のおじさんが、なにかというと「息子のヨッちゃんが高校へ通っている」ことをご近所に自慢していた。
ということは、たしかに昭和30年代までは、「高校生」には「選良」というプラス価値が多少は残存していたということである。弊衣破帽に高下駄履いて、詩を吟じ、音楽を奏でる「旧制高校」の亡霊をひきずった高校生は昭和30年代の前半の『サザエさん』にはまだ登場する。それが完全に消滅したのは、「高校全入」がPTAのがんばりのおかげで実現した東京オリンピックの頃の話である。
いま私たちは「高校生」という言葉から「頭が悪くて、騒がしくて、礼儀知らずで、大食いで、利己主義で、マクドナルドで煙草を吸ったり、ローソンで漫画を立ち読みしているひと」しか連想しない。
もちろんそうではない物静かで思索的な高校生諸君というものもあるいはいるのかもしれない。中原中也の詩をそらんじたり、湖畔の白樺の木陰で堀辰雄を読んだり、コルトレーンを聴きながらジャン・ジュネを読んだりするような高校生もあるいは日本全国に750人くらいはいるかもしれない。その人たちには「すまない」と思う。
しかし、とにかく「高校全入」以後、「高校生」という言葉と「思索的」とか「叙情的」とかいう形容詞がまるで無縁となってしまったことは確かである。
「大学全入」はこれと同じ効果を大学生についてもたらすはずである。すでに現在の平均的な大学1年生の学力の水準は(予備校関係者と大学関係者の証言を信じるならば)30年前の中学3年生のレヴェルにまで落ちている。この恐るべき事実が「偏差値」という指標の詐術せいで前景化していないだけのことである。
ご存知のように「偏差値」というのは、その人が、ある同年齢集団の何番目あたりにいるかという相対的な「位置」の指標であって、「学力」の指標ではない。同年齢集団全体がレベルダウンした場合、偏差値からは学力の低下という事実は知ることが出来ない。
さいわい予備校は毎年同じような難度の模試の問題を出題しているので、素点の比較によって学年ごとの学力を比較することができる。その結論が「1年間で1点のペース」で素点の平均点が下がっているという事実である。10年で10点、30年で30点。いまどきの大学生がバカに見えるのは、決して私たちの幻覚ではなく、じじつ大学生がどんどんバカになっているからである。
小津安二郎のサイレント時代の作品に『落第はしたけれど』というコメディがある。昭和初年の軟派大学生たちの生活ぶりを活写した愉快な作品である。そこに齋藤達雄(どこから見てもルー大柴)をはじめとするバカ学生たちが泥縄で卒業試験の勉強をする場面がある。齋藤は暗記するのが面倒なので、カンニングのためにワイシャツの背中にドイツ語の原書のかんどころを書き写してゆく。70年前には、いちばん出来の悪い大学生でさえ分厚い専門書を飛ばし読みして「やま」を探し当て、それを筆記する程度の芸当はできたのである。
「大学全入」によって、21世紀の大学は現在の高校と同じレヴェルの教育機関になる。それはそれで仕方のないことである。しかし社会の運営には、一定数の知的エリートがやはり必要である。大学が「高校」になってしまったら、「大学」に対応する教育機関が必要となる。これは論理的に自明のことである。
新基準での「大学」に該当するのは、東大をはじめとする一握りの超難関大学と欧米の大学だけであろう。それ以外の大学では、「大学」としての最低限の教育水準を保つためにも、出来の良い学生には大学に残って修士号を取得することをつよく薦められるようになるだろう。
つまり21世紀のはやい時期には、「一握りの超難関校+欧米の大学+ふつうの大学の大学院」が現在までの「大学」に相当するようになる。この三つのカテゴリーの定員の総和が大学志願者数の数%で収まれば、だいたい昭和初年の大学進学率ととんとんになる勘定である。
つまり「大学(という看板を出した学校)にゆくのが簡単な時代」とは、「大学(に相当する学校)を出るのがすごく難しくなる時代」なのである。大卒の肩書きが無価値になることなど、私にとっては痛くもかゆくもないが、この変化は思いがけなく深刻な副作用を伴うことになる。それについては長くなるのでまた来週。
「大学全入」によって日本社会はどうなるか、という話しの続き。
まずはっきりしていることは、18歳人口の激減によって、21世紀のはやい時期に、あちこちで大学の定員割れ(志願者全員を合格させても、まだ定員に満たないという現象)が生じるだろうということである。
「定員割れ」を起こした大学というのは、要するに誰でも入れる大学ということである。当然そこには、四則の計算ができず、dangerousを「ダンゴラス」と発音し、「精神」を「精心」と書くような大学生というものがわらわらと叢生することになる。(すでにいるが。)このような「底辺校」においては当然「講義崩壊」「演習崩壊」という事態が生じる。講義中に教室内を立ち歩き、飲み食いし、化粧をし、携帯電話をかけ、プレイステーションで遊び、注意する教師にガンをとばす大学生というものが(すでにいるが)各地の「底辺大学」に跋扈することになる。
これは考えて見ればしかたのない事態である。
最近の調査によると、小学校6年生の段階ですでに算数の授業を理解できなくなってしまった小学生が過半数を超えている。分数のわり算くらいのところで学校の授業が分からなくなってしまって、授業を聞くのを止めてしまうのである。
授業を聞くのを止めてしまうというのは、とても深刻なことだ。知識が身に付かないからではない。「ものを習う」ための基本的なルールが身に付かないからである。
「ものを習う」というのは、「知っている人間」から「やり方」の説明を聞き、それを自分なりに受け容れ、与えられた課題に応用してみて、うまくいかないときはどこが違っていたのかを指摘してもらう、という対話的、双方向的なコミュニケーションを行うという、ただそれだけのことである。しかし、このコミュニケーションの訓練を通じて、子どもたちは「説明を聞くときは黙って、注意深く耳を傾ける」「あとで思い出せるように(ノートなどの補助手段をつかって)記憶する」「質問は正確かつ簡潔に行う」「集中しているひとの邪魔をしない」などという基本的な態度を自然に身につけてゆくのである。
しかし、小学校の段階で「ものを習う」ことを放棄し、「ものを習う」仕方そのものを身につけずに大きくなってしまった子どもは、長じたのちも「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」をうまく習得することができない。対話的、双方向的コミュニケーションのしかたが分からないからである。
彼らは長い時間人の話を注意深く聞くことができない。ひとにものを教わるときの適切な儀礼(表面的な恭順さの演技)ができない。なによりも、教える相手に「自分が何を理解していないか」を理解させることができない。この子どもたちが「学級崩壊」の主人公たちである。
要するに、彼らは「自分が知らないこと、自分に出来ないこと」をどうやって知ったり、できたりするようになるのかの「みちすじ」が分からないのである。
だから彼らには「自分がすでに知っていること、自分がすでに出来ること」を量的に増大させる道しか残されていない。
彼らは、小学生のままの幼児的で自己中心的な自我のフレームワークの中に、TVや音楽やファッションやコンピュータ・ゲームやマンガやセックスやスポーツについてのトリヴィアルな情報をぎっしり詰め込むことを「情報の摂取」だと錯覚したまま成長する。そして「底辺校」の大学生を構成することになるのである。
このような子どもたちはもちろん大学でも何ひとつ学ぶことができない。そして無意味に過ぎた十数年の学校教育の果てに、低賃金の未熟練労働に就くことになるのである。
こうして「大卒のブルーカラー」が大量発生することになる。
彼らは「新しいプロレタリアート」である。彼らには社会的上昇のチャンスがない。彼らは権力からも利益の分配からもハイカルチャーからも情報からも疎外される。おそらくそのことの意味さえよく分からないままに。
自らの意思に基づいて社会的上昇のチャンスをつぶし、貧困と無知と被差別をすすんで選ぶ人々がこのとき出現する。弱者との連帯のためでも自己陶冶のためでもなく、ただ無能ゆえに中産階級から没落してゆく集団というのを歴史ははじめて見ることになるだろう。
そのときにおそらく本当の意味で「近代」の弔鐘が鳴るのだと私は思う。