学生たちを乗せてゼミ合宿に行く途中、カーステレオで森進一の「冬のリヴィエラ」(作詞松本隆、作曲大瀧詠一)がかかった。その歌詞の「冬のリヴィエラ、男ってやつは、港を出て行く船のようだね」というフレーズのところで、同乗の女子学生4人が大口を開けて笑いだした。
「男ってものは」とか「人生ってやつは」とかいう枕をふって始まる言葉を彼女たちはジョークとしか思っていない。これはある意味で健全な反応である。
だがお嬢さんたち、ちょっと待ってほしい。
男たちの多くにとっても「男」が文化的な虚構であることは周知の事実である。しかし問題は、男たちがこの虚構をジョークとしてではなく、一種のコンヴェンションとしてまじめに引き受けているという「事実」である。
小田嶋隆によれば、金を借りるときは「男だろ、黙って金くらい貸せ」と押し、返済を迫られたら「男だろ、わずかな金のことでがたがた言うな」とつっぱねるのが借金の定法だそうである。男たちは「男だろ」の一喝に弱い。「男だろ」の一言でネゴシエーションの過半は制しうる。
お嬢さんたちが分かっていないのは、かかる「男」の呪符的効果の「現実性」である。
レヴィ=ストロースによれば、ヤクート族の人々は歯痛のときにキツツキの嘴に触れると痛みがなくなると信じている。薬理学的な根拠のない治療法も、その治療法に対する集合的な同意があるところでは効果的治験を持つ。
「男だろ」の一言で、おのれの財布の中味や相手の主張の不合理性についての判断が停止してしまうのは、「男たち」の思考が本質的にレヴィ=ストロースのいう「野生の思考」に属していることを示している。
「野生の思考」がそれぞれの「聖なるもの」を有しているように「男の思考」も固有の「聖なるもの」を有している。野生の思考が外面的には無用と思われる煩雑な儀礼を不可欠とするように、「男たち」も意味不明のもろもろの儀礼によって日々の生活を整序している。「男たち」にとって「男であること」は一種の聖務日課なのである。
法律・貨幣・言語などという共同幻想に現実感を感じてしまうこと、メカニズムに情緒的にかかわること、ハードでいながらジェントルであること、夕方五時にリッツのバーでギムレットを飲むこと、ふと遠い目をして海に沈む夕日を見つめること・・・こういった煩雑なふるまいの集積が「男たち」の儀礼をなしている。
ただちに理解できるように、この興味深い生物はあきらかにある種の呪術的思考に基づいて生きている。ふたたびレヴィ=ストロースによれば、科学的思考が「まずいろいろなレヴェルを区別した上で、そのうちの一部についてのみある種の因果性の形式が成立すること」を認めるのに対し、呪術的思考とは「包括的かつ全面的な因果性を公準とする」思考のことである。
分かりやすく言い換えよう。「男だろ」と言われて友人になけなしの金を貸してしまう男は、彼の妻から見ればただの馬鹿である。しかし短期的な経済的不利益の代償として、彼が「男たち」の間で高い評価を獲得し、結果的にうまみのある政治的・社会的なステイタスを得たとすると、彼は短期的不利益が長期的な利益に結びつくことを「直観」的に感知していたことになる。
一見すると審美的基準のみに基づく非功利的な行為が、実は包括的かつ精密な分類的思考の所産であることが事後的に判明することを、レヴィ=ストロースは「野生の思考の先駆的科学性」として称揚した。
同じことが「男たち」の思考についても言えるのではないかと私はつねづね思っている。それゆえ「男たち」の思考を「野生の思考」として認めることを私は要求したいと思うのである。呪術的思考を非科学的・非合理的と一笑に付すだけではなく、それを世界認識の一形式として、一種の「知的操作」として認めてほしいと願うのである。「男たち」を未開のものとして排除したり教化の対象としたりせず、ローカルな、しかし名誉ある人間社会の成員として認知してほしい。これが私の切なる願いである。
もし「男たち」に固有の思考や行動の様式を学的に記述分析することを「男性学」と呼称するのであれば、「男性学」者は、文化人類学者が未開社会のインフォーマントに接したときのように、「男たち」を先入観なしに、ささやかな敬意とあふれる好奇心を以て観察するであろう。
私は「男性学」というものをそのようなものだろうと思っていた。そういうものであれば、私も微力ながらインフォーマントとしてお役に立ちたいと思う。しかし上野千鶴子の構想している「男性学」はそのようなものとは違っていた。彼女の「男性学」は観察や記述ではなく、教化と馴致のための言説である。私はいくばくかの失望を込めてこの書物を紹介したいと思う。
上野は巻頭論文の『「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ』で「男性学」というものをこう定義している。
「これまでのほとんどの社会科学は『人間学』の名において、男性を普遍的な『人間』と潜称[ママ]してきた。その観点からは、女性は特殊な残余としかみなされない。『女性学』以前の女性論とは、自分を主体として疑わない男性の手によって『他者』として書かれた客体としての女性論だった。女性学とは、その男性中心的な視点から、女性を主体として奪いかえす試みだった。男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である。」(P.2)
女性学が女性中心的視点からする歴史と世界の読み直しの試みであったことに異論はない。問題にしたいのは、その先の男性学の定義である。
女性学の定義をそのまま援用すれば、男性学とは「男性中心的視点」から「男性としての主体性を奪い返す試み」でなければならない。しかし上野はそのような定義を採用しない。(当たり前か)
男性学とは、男性が「女性的視点から」男性を見ることである。つまり、女性は「自分の目」で男性を見ることが許されるが、男性は「他人の目」を借りて自分を見ることしか許されないのである。
なんだかずいぶん不公平なような気がするが、私の見るところ、フェミニズムはマルクスのプロレタリアート概念を女性に適用することによって、これまでこのアポリアを解決してきた。
周知のように、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で、プロレタリアートを「社会のすべての層から自己解放することなしには自己解放しえず、それゆえ社会のすべての層を解放することなしには自己解放しえぬ一つの層、一言にして言えば、人間の全的喪失であり、それゆえ人間の全的回復なしには自己を再獲得しえぬ層」として定義した。
フェミニズムはこのテーゼを換骨奪胎して、男性から自己解放することなしには自己解放しえず、それゆえ男性を解放することなしには自己解放しえない社会的層として女性を定義する。
女性解放はただちに男性解放と連動する。女性による主体性の奪還は、女性の権力化でも男性の奴隷化でもなく、双方の同時的解放である。男性は権力的な主体性を失うことを通じて、非権力的な主体性を新たに獲得する。これが女性解放即男性解放論の基本的なロジックである。このロジックに基づいて男性学は構想される。つまりそれは「男性が非権力的な視点を獲得する」ためのガイド・マップなのである。
上野のそのための条件として二つの制約を男性主体に課す。一つは「女性の目に映る」ものを見ること。一つは「自画像を見ること」である。男性は「自分の目に映るもの」を見ることが禁じられている。(それは男性中心的視点だからだ。)男性は「女性を見ること」を禁じられている。(それは暴力の行使だからだ。)
OK。君たちがそういうルールでやりたいというなら、それで結構。しかしどう考えても、このような制約の下で記述されるテクストは女性にとっても男性にとってもあまり面白そうではない。
第一に、もしも男性学が「女性の目に映る男性像」の記述であるなら、それは女性たちにすれば、見飽きた日常的な風景にすぎないはずである。見飽きた日常的風景から彼女たちはいかなる新しい知見を汲みだし得るのだろう?
冒頭で上野は「男性学の巻を女が編むことに、抵抗を示すひともいるかもしれない。(...)ほんらいなら、男性学の巻を男性の編者が編むのを待つべきであろう」と書いている。
女性が男性学への接近をはばかるのは、男性のテリトリーに対する遠慮ではなく、たぶん男性学が彼女たちにとって退屈だからである。もし男性学において「カム・アウト」される自己省察のうちに女性にとって退屈でない要素があるとしたら、それは「男性の自己省察の欺瞞性」あるいは「不十分性」以外にはないだろう。「男性がいかに自己中心的な視点にとらわれているのか」という「査定」の楽しみだけがおそらく彼女たちを男性学に引きつけている。
このような「減点法」による査定の視線を構造的に組み込んでいる以上、男性学が、男性の権力性と醜悪さを「自己検閲」「自己批判」する告白の言説に充満するのは必然の帰結である。そして当然のことだが、権威的教義にすりよってゆく迎合的言説ほど退屈なものはないのである。
『男性学』に収録された19篇のうち、村瀬春樹の「〈ハウスハズバント宣言〉」はこの種の「減点法」に慣れきった男の迎合的言説のプロトタイプである。少し長いが引用しておこう。
「『ほんと!そこが難しいところね』
書きかけの原稿用紙を覗き込みながら、ユミコが言った。
『好き勝手に生きるのも容易じゃない』とぼく。
『容易じゃなくても不可能じゃないわ。とにかく始めることよ』
『亭主がみんなオレみたいにハウスハズバントになればいいんだ』
『それは間違っている』
『どこが!?』
『オレみたいにってところが』
『なぜ?』
『百組のカップルがあれば、百通りのやり方があるはずでしょ?いちばんやり易い方法で始めれば良いのよ』
『その通りだ』
『私たちよりも簡単にいくかも知れない。二年も三年もかからないで』
『正確には三年七ヶ月だ。長すぎたかな?』
『始めるのが早いほど良いのは確かね』
『そう、いっしょになる前の方がいい。男が主婦になる約束をしなければやらせないとか』
『セックスは取引の手段じゃないわ』
『ごめん!』
『法律を作るべきよ。ハウスハズバント法。』」(pp.188-189)
この対話は夫は妻に質問し、妻がそれに解答を与えてるという「教化的問答」の形式をとっている。夫は引用した中だけで3回主体的な言明を行うが、それはすべて「間違い」として妻によって修正あるいは否認される。一方、妻の4回の言明はすべて「教義」として受け入れられる。
村瀬はこの関係を「男と女が水平になる」関係だと満足気に記しているが、私の目には妻が夫を教化し、訓練しているようにしか見えない。これは村瀬の作文であるから、実際に村瀬夫婦のあいだでこんな会話があったかどうかは知るべくもないが、確かなのは、夫が妻に教化され訓育される関係が対等で理想的な関係だと村瀬が読者に思わせようとしているということである。
谷口和憲の「性−女と男の豊かな関係」はみずからの「買春」の経験を書き連ねた懺悔的な自己批判である。さんざんソープランドに通ったすえに反省して「アジアの買売春に反対する男たちの会」の結成に参加した谷口の経験からいったい何を学んでほしくて上野はこのテクストを収録したのか、私にはぜんぜん理解できない。
この無内容なテクストの教訓が「反省することははじめからしない」ということだとすれば、あらためて教わるまでもなく、私はそれを幼稚園で教わった。「フェミニズムに理解を示すほどに《先進的》な男性でさえ、買春を容認するようなセクシュアリティの歪みをかかえている」ということであれば、あらためて教わるまでもなく、私は身近に多くの事例を知っている。
星建男の「子育てから遥か離れて」は「保父」という異端的な生き方を選んだ男が既成の「男らしさ」に訣別する決意を語ったテクストである。これもまた目の眩むよ
うな常套句のコラージュである。
「心やさしき男たち!
僕たちが”男”として生きていく時、自分の自然な”人間”を生きられない。それは、おんなの人たちがさまざまな制約や枠付け、役割の中であえいでいるのと、程度の差こそあれ、根は一つで結ばれている。管理支配されやすい男と女の重たい根。これをいったいいつまで続けていくのだろう。(...)
僕たちが拒絶し続けてきたこと、逆に言えば、僕たちがそのことから疎外されてきたこと、子育てを自分の手に取り戻すことを通して、奪われてきた『やさしさ』を取り戻すことを通して、僕たちを取りまく悪しき構造−生産へと駆り立て、知らないうちに知らないやり方で、他の人たちを押しつぶしている構造から、僕たち自身を解き放つには!?
さあ、おとこたち!
こどものいない男も、いる男も、押しつけがましい”男らしさ”をふりすてふりすて、”男”の子育てを考え合おう!」(pp.208-209)
書き写しているだけで気が滅入ってきた。
私にとっても「男の子育て」は切実な問題である。しかし、私は子育てを「拒絶し続けた」こともないし、そこから「疎外されてきた」こともない。「やさしさ」を誰かに奪われたおぼえもない。分かるのはこのようなオリジナリティの片鱗もない「常套句男」と子育てのようなデリケートな問題については私は語り合いたくないということだけである。
彼らの書くものを退屈にしているのは、そのステレオ・タイプ的思考である。そしてそのスレテオ・タイプの原型は例えば上野の家事労働観に見られる。私は父子家庭の父親であり、家事をする男であるせいで、そのような男を論じるときの上野の語り口にとりわけつよい違和感を感じてしまう。
例えば上野はこう書く。
「フェミニズムに理解のある男たちといえば、まっさきに思いつくのが『家事・育児をする男たち』である。」(p.11)
なぜ「家事育児をする男」はフェミニズムの盟友となりうると上野は考えるのか?
彼女によれば、そのような男たちは男性という「一流市民」階層に属していながら、女性がそうであるところの「二流市民」、「特殊な存在」に没落するリスクを冒しているからである。
「妻に迫られ、あるいは子育ての状況に強いられ、または自分自身の意思から、不払いの家事労働をになうことで、『二流市民』にドロップ・アウトする危険を冒す男たちがいる。」(p.12)
私は状況に迫られて子育てと不払いの家事労働を担ってきたが、依然としてフェミニズムに対して無理解である。私が「二流市民」であるかどうかについては判断がきわどいところだが、かりにそうであるとしても、それは私の才能と努力の不足のせいであって、家事労働のせいではない。
父子家庭の父親も「特殊な存在」として社会から冷遇されているせいでフェミニストの有力な盟友候補である。
ある女性研究者は「父子の会の聞き取りに、彼女のジェンダーが幸いしたと書く。もしこれが男性の研究者であったら、父子の会の父親たちは率直に話しただろうか?学歴も社会的地位も高く、社会的な成功者である同性の聞き手に、社会的弱者と見なされている父子家庭の父親たちは身構えこそすれ、胸を開くことはなかっただろう。」(p.24)
それぞれの事情はあれ、母子家庭も父子家庭も主体的に引き受けられた生き方である。それをひとしなみに「社会的弱者」と決めつけるような通俗的で皮相な現実認識は、たとえ憐憫の情からのものであったとしても、私には許容できない。
たしかに家事育児がそれなりの負荷であることを私は否定しない。
しかし、家事育児をする男は「『男らしさ』の規範からみれば『だらしない男』である」(p.13)と決めつけられるのは、はなはだ迷惑であるし、見当違いである。
「彼は企業社会で結局、おちこぼれになるほかないのだろうか?」(p.13)と上野は脅かすが、その程度のことを仕事ができないことのエクスキューズに使うのは「男の沽券にかかわる」からと黙々と家事労働を負担している男はいくらもいる。
上野の分析と私の現実理解のこの「すれ違い」は偶有的なものではなく、おそらくフェミニズムの「戦略」と密接にかかわっている。
家事労働は単に不毛であるばかりか、それを担うものに致命的な社会的ハンディをもたらすとする考え方はフェミニズムの基幹的主張のひとつである。女性を家事労働から解放するためには、家事労働のマイナス面をつとめて強調することが必要であったことを私は理解できる。だが、この家事労働負担の「過大評価」は別の問題を引き起こしていると私は思う。
家がある限り、家事労働は消滅することがない。(むろんサルトルや淀川長治のように生涯ホテル暮らしをするという選択肢もないわけではないが)家事ある限り、負荷の分配・苦役の分配は不可避である。
家族のメンバーのうち誰がどれだけ家事=ハンディを受け入れるのかという議論は愉快な議論ではない。げんに多くの家庭において、家事の分担のためのネゴシエーションは頻繁に家庭内にフリクションを生み出している。そしてしばしば家事分担の交渉に要する心理的なストレスの方が、家事そのもののもたらす物理的疲労以上に、ひとを傷つけるのである。
家事は知的で楽しい作業であり、生産的・創造的な主体を要求する。それは押しつけ合うものではなく、進んで負担すべきものであるというふうに考えることはできないのだろうか?私はつとめてそう考えるようにしているが、フェミニストはこのような考え方をたぶん危険なものとみなすだろう。
それに、家事労働のマイナス面を強調することは、ただでさえ家事から逃げ腰の男たちをいっそう家事負担から遠ざけることになりはしないだろうか?
「二流市民へのドロップアウト」のリスクなしには家事労働は担当できないと脅かされて、喜んで家事労働に向かうような男はいない。男たちを家事労働に向かわせるためには、どこかでプラスのインセンティヴが働かなければならない。男たちに合理的判断を停止させ、短期的に不利益と思われる選択に踏み込ませるためには経験的に有効な方法がある。
そして結局上野も政治的判断からその方法を採用するのである。
「日常という逃げ道のない闘いの場」に踏みとどまる男たちの姿を上野はほめあげる。「子育てという逃げ場のない日常に目をそらさずにたちむかうかれらの態度は、いっそいさぎよく『男らしい』。その迷いやとまどいのなかから、男らしさを再点検していくかれらには、息詰まるほどの誠実さがある。」(p.12)
フェミニストがこんなことを書いてしまっていいのだろうか?上野はここで男たちを家事労働に呼び寄せるために、「闘い」のメタファーで気分を盛り上げておいて、「男らしさ」の呪符を利用している。切羽詰まると「男だろ」の一喝で相手を制するというのでは、小田嶋流の借金術と選ぶところがない。
男性学は本来「男らしさ」というような無内容な語が呪符として機能してしまう構造そのものを問うはずではなかったのか?その構造の解明を通じて呪符そのものの無効化をめざしていたのではなかったのか?
ここで上野は「男たちの神話」の解明よりも女性の事実上の利益(家事労働の公平な分配)の方を優先している。上野の興味は「男たちというはどういうものか」の学的解明よりも「男たちをどう動かすか」という政治的操作に傾いている。男たちはどう威嚇すれば縮み上がり、どうおだてれば図に乗るかということを熟知した上で進められている上野の議論は、そうやって考えると非情なまでに「政治的」である。
谷口や村瀬のような男の書くものが退屈で無内容だということを上野は知った上で感心してみせる。「男らしさ」という呪符で男を操ることができると知れば、平然と「男らしさ」に「息が詰まって」みせもする。
私は上野のこういうマキャベリズムを批判しているのではない。上野の不誠実さは意図的なものであって、底にある政治判断そのものは間違っていないからだ。(私がフェミニストだったらたぶん上野と同じことをする。)
別のところに書いたように、私は現在の性間の状況を政治闘争のタームで理解している。性関係はヘゲモニー闘争としていま進行しており、これは一方がポイントを獲得すれば、他方はポイントを失うゼロサム・ゲームである。それがいいとか悪いとかいう問題ではなく、現実にそうだということである。
上野もおそらくは同じ状況理解から出発して男たちの分断を画策している。主夫、ホモセクシュアル、夫婦別姓実践者などの少数派の男性をケルンとする「第五列」を男たちの中に楔として打ち込むというのが「男性学」の軍事的ねらいである。私はこの戦術的判断は適切であり効果的であると思う。
男性学はそのようなフェミニズムの政治的・軍事的要請に応えて出現したものであり、女性解放の大義に奉仕するためだけに存在する。むろん「すぐれたプロパガンダ」が「すぐれた学術研究」とおなじくらいに、ときにはそれ以上に有益であることを私は否定しない。ただし、私はそれを「学」と呼ぶことはできない。
最後に付け加えておかなければならないが、私の「失望」は編者の意図に対してのものであって、この本がいくつかのすぐれたテクストを含んでいることを否定するものではない。例えば、巻頭の橋本治の文章を私は深い共感をもって読んだ。
しかし出典である橋本の『蓮と刀』は私の記憶が正しければ日本のゲイ・カルチャーについての容赦ない分析であり、そこでの橋本はゲイの自己正当化に対して(ゲイのうちに男権的な性幻想への痛烈な批判者を読みとる)上野ほど寛容ではなかったように思う。
たとえば橋本はカム・アウトするゲイについてこう書いている。「大体サァ、”ゲイとしての生活を僕たちは送りたい”って、そんなこと肩肘張ってやってくんじゃなくて、そういうことをさりげなくやっていきたいってことでしょう?だったらなおのこと”僕ってゲイなんです!こんなに大変なんです!こんなにさりげなく生きてるんですッ!!”なんてこと力説しない方がいいんじゃない?だってサァ、下手にそんなことすると、”私は女よ!私は女よ!だから女としてサ!私はサ”ってやってるブスの偽ウーマン・リブの二の舞よ。」
上野は引用に際して橋本の文章のこの部分を削除している。気持ちは分かるけれど、こういうを「検閲」っていうんじゃない?