中学生による暴力事件が相ついでいる。首相が異例のコメントは発表したり、なんだか社会的な地殻変動が起こったようなあわてぶりである。私は以前に、近いうちにこどもたちが社会の最も暴力的で、最も弱い環になるだろうと書いたことがある。そのとき私が「子供は弱い環だ」という言葉で言おうとしていたのは、「私たちの社会の集合的な連帯」が「こども」を起点にして寸断され崩壊してゆくだろうという陰鬱な予想であった。悪い予想はよく当たる。
今回の事件について、またうるさく「学校が悪い」のか「家庭が悪い」のか「大人の社会が悪い」のかいった不毛な責任のなすりあいが始まるだろう。そのときに「偏差値教育」とか「受験のストレス」とかいうすりきれた言葉でなにごとかを説明しようとする識者がいるかもしれない。せめてそれだけはやめてほしいと思う。
はっきり言っておくが、中学生が暴力的な行動に出るのは「偏差値教育」や「受験のストレス」のせいではない。というのも、「予備校教師」や「学習塾の講師」がストレスフルな中学生に刺されたという事件を私は寡聞にして知らないからである。
都市部では、小学校の高学年からこどもたちは塾通いを始め、それがふつう大学入学まで続く。塾というのは受験勉強「だけ」を教えるところであり、偏差値「だけ」が唯一の価値基準であるような「異常な」空間である。とすれば、塾や予備校こそ、偏差値教育の矛盾が頂点に達し、受験ストレスが爆発して、「数学の授業中に、問題が解けなかったこども、教師を教壇で刺殺」というような事件が頻発してよい場所のはずである。しかし、そのような事件は起こらない。あれほど多くの予備校と塾がありながら、である。なぜか。
それは予備校や塾は受験勉強「だけ」を教え、成績「だけ」を重視し、こどもたちの「人格」をきっぱりと無視しているからである。
極端に言えば、こどもがチックを起こしていようと、ヘビースモーカーであろうと、上着の裾からパジャマがはみだしていようと、よだれを垂らしていようと、予備校や塾ではそんなことには誰も注意を払わないし、誰もとがめないのである。だからこそ、予備校や塾でこどもたちが「解放感」を味わうということが起こりうるのである。
おおかたの人々が信じているのとは逆に、学校が抑圧的なのは、そこが個人の「人格」を無視しているからではなく、個人の「人格」だの「個性」だのというものが過剰に言及されるせいである。
「成績がよいからといって思い上がってはいけません」とか「成績が悪いからといって人間の屑であるわけではありません」というふうなことを予備校の教師は絶対に口にしない。なぜなら予備校教師は「成績」と「人格」のあいだには何の関係もないということを熟知しているからである。彼らは自分たちの仕事は生徒の成績を判定することだけで、生徒の人格についてはコメントする立場にないということをわきまえている。
成績と人間性のあいだになんらかのリンケージがあるとか、ないとかいう有害な言説をまき散らしているのは学校の教師たちの方である。彼らは、成績の判定だけでは生徒を「屈服」させることができないことを知っているがゆえに、執拗に生徒の人格や個性についてのコメントする。
むかし、自動車教習所に通っていたとき、運転技術の教習を通じて生徒の人格陶冶をめざす困った教官がいた。
路上教習のとき、私が不注意で、歩行者に近づきすぎてしまったとき、彼は「歩行者保護ができないのは、人間として最低だ。おまえには運転なんかする資格はない」と私をどなりつけた。私はもうけっこうな大人だったが、この言葉にはさすがに怒りを抑えきれず、車からひきずりおろして殴ってやろうかと本気で思った。
おそらく彼は善意の人であり、教育的情熱にあふれていたのであろう。しかし、彼は大きな間違いを犯している。それは、機械の操作技術を習うために、インストラクターに対して私が立場上採用している従順で注意深い態度を、人格的な上下関係ととりちがえて、私を「人間的に訓育する」権利と「責任」が自分にあると思ってしまったことである。
この教官と同じ誤りを日本の教師の多くは毎日犯している。生徒たちが「立場上採用している従順で注意深い態度」を教師に対する人格的恭順のしるしだと取り違える誤りと、そもそも学校教育に何も期待していない生徒の無気力な態度を教師に対する人格的反抗だととり違える誤りである。
結論を急ごう。学校での暴力を根絶する一番効果的な方法は、学校からいっさいの「人格教育的要素」を排除することである。
限定された技術と情報を「オン・デマンド」で伝え、習う側には適切な対価と必要なルールの遵守だけを要求するようなビジネスライクな学校。そこでなら、どのような暴力事件も生じないであろう。私はそう断言できる。
学校をそのような場に改める以外に今日の教育問題の根本的な解決策はない。