: updated 19 April 1999
Simple man simple dream -27
正義と慈愛

「上野千鶴子をどうやったらこてんぱんに批判できるか、考えて」という「隣の上野先生」のご依頼で、『「慰安婦問題」とナショナリズム』という本を読んだ。

これは同名のシンポジウムの記録と、それへこコメントで構成されている論争的な書物である。論争に参加しているのは、フェミニストとマルクス主義者とポストモダニスト。私はこれらの陣営のいずれに対してもイデオロギー的には親近感を感じないのだが、やはりおのずと共感と反感の濃淡の差というものはでてくる。

いつ読んでも、やっぱり好きになれないのが上野千鶴子。

上野はこの論争では批判の十字砲火を浴びて満身創痍気息奄々である。歴史学者から論証のずさんさを指摘されたりするのはしかたがないとしても、フェミニストたちから、「ナショナリスト」と罵倒されるに至っては、身の不徳のいたすところというか、自分で掘った墓穴に落ちたというか。

上野をいちばん痛烈に批判しているのは岡真理という若いフェミニストだが、この人のクリアーカットなロジックは、かつて上野が論敵にむけたものと酷似している。上野は自分の武器で、自分を責められているわけだが、その岡に欠けているのは、自分もまたいずれより若い世代から同じロジックで攻略されることになるという「事実」についての想像力である。

(ここには直接参加していないけれど)加藤典洋と高橋哲哉の『敗戦後記』をめぐる論争も興味深い。この論争では、当事者のふたりともに私は好感を抱いている。だから、どっちが勝ちでどっちが負けとかいうことはいいたくない。どちらかといえば、加藤典洋のたどたどしさに親しみを感じるけれど、それは高橋哲哉の怜悧さがいやだということではない。高橋のロジックにはところどころついていけないところがあるが、それをドライブしている感情は分かるからだ。

この二人に共通しているのは、簡単に言えば、気性の「やさしさ」である。彼らはそれぞれの仕方で正義をもとめているのだが、それは(上野や岡のような)誰かをこずきまわすための正義ではなく、誰かをいたわるための、傷ついた誰かを癒すための正義である。

わが老師レヴィナス先生によれば、「他者」のよびかけは私たちのうち「有責性」というものを呼び覚ます。

有責性はいっぽうでは「裁き」をもとめ、いっぽうは「慈愛」をもとめる。「おのれに罪あり」とするものは、峻厳な論理に貫かれた審問の言語を語るだけではない。論理からすりぬける赦しの言葉をも同時に語るのである。このふたつの背馳する運動を、ふたつの要求に引き裂かれつつ一身に引き受けようとするものだけが「他者」と出会うことになるだろう、と老師は教えられた。

マルクシストもフェミニストもポストモダニストも、みなそれぞれのしかたで知的にも倫理的にも誠実であることを私は認める。とりわけ彼らがおのれの権力性やイデオロギー性を検知するために自己審問の論理と語法を鍛え上げてきたことはただしく評価されなければならないだろう。

しかし、彼らはあまりに「審問」というみぶりに固着してはいないだろうか。ブルジョワジーを、男権主義者を、父権制社会を、権力構造を、彼らは鮮やかに審問する。そして、そのように審問するおのれ自身の権力性まで、ちゃんと審問するのを忘れない。完璧だ。

でも、「審問」を究極の動詞とする言説は私には息苦しく感じられる。誰かを告発し、断罪し、弾劾し、切り刻むということはそんなに素晴らしいことなのだろうか。そんなに崇高な行為なのだろうか。私にはそうは思えない。

正義への希求は「不義によって」苦しむ人びとの痛みを想像的に共感するところから始まる。だから「審問」という攻撃的なふるまいを動機づけるのはほんらいは「憐憫」や「同情」という柔弱な感情であるはずだ。

こんなふうに言うと、「被抑圧者や難民や父権制社会で苦しむ女性たちこそ、『不義によって苦しむ人々』である。まさに私たちはその人々のために戦っているのである」と審問主義者たちは答えるだろう。

おっしゃる通りである。たしかに、あなたたちは「不義に苦しむ人々」のことについては想像力を縦横に発揮してきた。けれども「正義によって」苦しむ人々についてはどうだっただろう。

たとえば、あなたがたの「正義のロジック」によって「敵」とされた人々の痛みについては、どうだろう。あなたがたに「プチブル急進主義者」とか「男権主義者」とか「近代主義者」とか名指されてきたもの(私のことだけど)の痛みについてはどうだろう。(別にいいけど)

その内面についていちばん想像力を及ぼすのがむずかしい人、そのひとの思考や経験の様式について、いちばん想像しにくい人のことを私たちは「他者」と呼んでいる。私たちの理解を斥け、共感を絶する絶対的な異邦人のことを「他者」と呼んでいる。

そしてそのような「他者」となおコミュニケーションを成り立たせたいと願う根元的な衝動を「愛」と呼んでいる。

「正義が正義でありすぎる」ことのあやうさについてレヴィナス老師は繰り返し語っていた。

「赦し」のモメントを含まない思想は正しいけれど、不幸な思想であると私は思う。人を裁き、おのれを裁き、その裁きの仮借なさをもって知的誠実さや思想的な純粋性の指標とするひとの生き方は、正しいけれど、悲しいと私は思う。

正しいけれど不幸で悲しい思想よりは、正しくなくてもハッピーな思想のほうが私は好きだ。


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