: updated 9 April 1999
Simple man simple dream -10
本を読もう

今週は読書週間だそうである。新聞の社説が「みなさん本を読みましょう」と激励しているけれど、朝礼の校長先生の訓話と一般で、こういうことを言われるようになるということはもう「本もおしまい」ということである。

最近の若い人たちは本を読まない。もちろんミステリーとかタレント本とかファッション誌とかガイドブックとかファミコン攻略本とかは読むのだろうが、「古典」とか「外国文学」とかになると全然読まない。もう、みごとなくらい、まったく、感動的なまでに、読まない。

先日、東京大学の先生とその話をする機会があった。その先生の授業で、「これまで読んだことのあるフランス文学作品の書名を書け」というアンケートをしたら、中にひとこと「カフカ」と書いた学生がいたそうである。

すると横にいた某私立大学の同じフランス文学の先生が「ははは、冗談じゃない。そんな程度で嘆かれては、こちらの立つ瀬がありません」と応じた。その先生のゼミでは、学生たちが自分の研究したいテーマを書いて提出するきまりなのだが、そこに専攻研究テーマとして「カミュトルとサル」と書いてよこした学生がいたそうである。

「カミュトルとサル」。作り話では出せない暴力的なリアリティを感じる。

時代は変わった。

私が高校生の頃、国語の教科書に出てきた「中原中也」という名前の読み方が分からなくて、小さな声で「なかはら、なかや」と読んだ同級生がいた。彼はそれから三年間、誰からも相手にされない暗い青春を送らねばならなかった。私たちは少し意地悪すぎたかもしれない。しかし、そのような緊張感ゆえに、その頃の私たちはある種の書物にいやおうなしに立ち向かうことを強いられたのである。

苦役に耐えるようにして読まなければならない書物というものがある。高校生や大学生の手持ちの知識や感受性や理解力をもってしては、まったく歯が立たず、それを読み通すためには、自分の考え方の枠組みの容量をむりやり押し広げなければならないような、ときにはおのれの幼い世界観が解体する痛みに耐えねばならないような読書経験がある。高校生がマルクスやニーチェやドストエフスキーやバタイユを読むというのは、そのようなある意味では痛々しい経験である。

『悪霊』や『内的体験』を読んでいる途中で「まことちゃん、ごはんよ!」と呼びかけられ、階下へ降りると、テレビに眼を向けたままずるずるとうどんを食べている母親に「あんた、遠藤久美子と中山エミリって区別できる?」といきなりふられたときのまこと君(高校生・17歳)の心中に去来する「深い哀しみ」を理解できるものは、家族のなかにはいない。

彼が『悪霊』を「エンターテインメントとして読む」ところまで成熟していれば、あるいは母親の無垢な問いかけを「じゃあ、母さん、ロンブーの1号と2号のどっちが淳だか知ってる?」とにこやかに受け流すことも可能であるかも知れない。しかし苦役としてドストエフスキーを読んでいる高校生にそのような包容力はない。彼は憎むべき「無知」の具現化であるところの「うどんずるずる母」を凝視しつつ、それまで親しみと暖かさを感じていた世界が急速に色褪せてゆくのを感じる。「ああ、これこそハイデガーのいう『世界の適所全体性の崩壊』であり、カミュの『不条理』なんだ」とひとりつぶやきつつ、まこと君は家では次第に口数の少ない、陰気な少年になってゆくのである。彼が再び陽気な母親を愛する仕方を学び直すまでには、まだまだ多くの書物を読み進んでゆかなければならないだろう。

すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。

若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、というしかたで、私たちは少しずる成長してゆく。そのためには幼いときから「異界」と「他者」に、書物を介して出会うことが絶対に必要なのだ。どれほどすぐれた物語であろうと、『ドラえもん』だけでひとは大人になることはできない。

みなさん文学を読みましょう。

(1998)

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