: updated 11 April 1999
Simple man simple dream -7
日本三大港町作家

「大都会」とふつうの「都市」を識別する指標は何だろうか。

人口の多さではむろんない。政治的、経済的なセンターがあること。それだけでは十分ではない。文化的な発信基地であること。これはかなり近いが、それらは大都会であることの結果であって、原因ではない。

「他の都市、他の国の人々が、そこで違和感なしに暮らせる場所」というのが、私が「大都会」について下す定義である。「その中に《異国》を含む場所」と言い換えてもいい。
日本の場合はながいこと非常に分かり易い指標があった。「チャイナタウン」がそれである。「チャイナタウン」を含む街を私は勝手に「大都会」と決めていた。
私の定義に従うと、日本には三つ大都会がある。横浜、神戸、そして長崎である。

この三都市には非常に共通点が多い。
港町であること、外国人の居館が観光名所であること、海に向かって下る急峻な斜面の上に街が展開していること、高台を「山手」と呼び、上の方にあがるほど社会的ステイタスが高くなること、「山手」にミッション系の女子校があり、そこが流行の基点になっていること、食べ物がおいしいこと、やくざが多いこと、「日本で最初に・・・をした」(新聞を出した、列車が開通した、カステラを焼いた、モスクができた、株式会社ができた・・・)場所であること、などなど、数え上げれば切りがない。
これらはいずれもこの三都市が「外部」に向かって開かれており、うちに「異国」を取り込むことで活性化してきたことのしるしである。つまり、この三都市は「風通しのよい街」なのである。

しかし、これだけの話なら、べつに私の創見ではない。これまでも同じことをたくさんのひとが指摘している。私が言いたいのは別のことである。この三都市は私たちの世代を代表する作家たちの出身地なのである。

神戸は村上春樹と高橋源一郎、横浜は矢作俊彦、長崎は村上龍の出身地である。(村上龍は佐世保だが、まあ、隣だからいいでしょ。)

私は彼らをひそかに「日本三大港町作家」と呼んでいる。(数が合わないので、泣く泣く尼崎出身の高橋源一郎ははずすことにする。でも、高橋は灘校、横浜国大と一貫して港町の学校にこだわっており、この姿勢に私は深い共感をおぼえるのである。)

村上春樹は県立神戸高校から早稲田の文学部にすすんだ。『風の歌を聴け』や『羊をめぐる冒険』には急な坂道が(いまは埋め立てられてしまった)海へ向かっている、東西に狭い小さな街が繰り返し出てくる。これは彼の育った芦屋の街である。その街で彼はアメリカのポップ・ミュージックと小説を読んで少年時代を過ごした。

村上龍は県立佐世保北高校から武蔵野美術大学。彼の場合は「米軍基地のある街から米軍基地のある街へ」という移行パターンが明瞭だ。『69』では、彼は60年代の終わりの基地のある街での元気な高校生の姿を活写している。

「米軍基地」という日本の中の異国に対する思い入れがいちばん深いのは矢作俊彦である。矢作の小説のほとんどは横浜が舞台である。矢作は、横浜以外の街には住む価値がないと繰り返し主人公に語らせる。

横浜の圧倒的な優位性を支えるのは、「アメリカ」の存在だ。PX、大排気量のアメ車、芝生のあるハウス、ポニーテールの少女たち、アイスクリーム。矢作の「横浜小説」は今はなき「夢のアメリカ」へのラブコールで満たされている。

彼らが少年期に共通の通過儀礼として経験した「アメリカ」は現実のアメリカではない。それは1960年代の日本の少年たちが紡ぎだし、アメリカに投影した、恐怖と魅惑の「異国」のイメージに他ならない。

「アメリカ」は小説とポップスによって村上春樹少年を魅了し、脅迫的な軍事力のすきまから滴り落ちるドラッグとセックスで村上龍を魅了し、車と酒と音楽と食物をつうじて垣間見られたその圧倒的な豊かさで矢作を魅了した。かれらは、それぞれの資質に従ってみずからの「異国」のイメージを選んだのである。その異国は彼らの小説のすべてに消すことの出来ない匂いをしみつかせている。

三大港町が私たちの時代を代表する先鋭的な作家たちを生み出したことは決して偶然ではないと私は思う。異国との回路は少年たちを高揚させる。少年に取りついた恐怖と魅惑の異国の夢が、彼らの想像力を強く刺激し、やがて彼らをいやおうなく「書くこと」へと導いたのではないか。

東京はいま大都会になりつつある。

赤坂や新宿の東北部にはコリアン・タウンが、新大久保にはバングラデッシュ・タウンが、池袋にはパキスタン・タウンが形成されている。上野公園には日曜毎に数百のイラン人が集まり、新宿歌舞伎町では中国系マフィアが日本のやくざを放逐した。それぞれの「民族共同体」では日本の警察がはいりこめない内部での紛争や抗争を独自の司法システムによって裁決しているという。

これらはすでに日本のうちなる異国である。

外国人労働者の大量流入によるエスニック・グループの集住は、短期的なスパンで、かつエゴイスティックに発想する限りは、日本社会にとってマイナスになるだろう。しかし、あと20年後に、「異国」との出会いに恐怖と魅惑を感じて成長するいまの東京の小学生たちのなかから、巨大なスケールの作家が登場してくることを想像すると、私は不思議な興奮を禁じ得ないのである。(1991.1)

なんてことを書いてから数年したら馳星周の『不夜城』が出現した。まだ「巨大なスケールの作家」には届かないけれど、けっこうこの予言は当たるかも。


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